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日蓮大聖人・池田大作

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第九回本部幹部会 仏法は「民衆」と「時代」に脈動

1988.9.17 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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1  社会の動向見ぬくゆくリーダーたれ
 さわやかな秋の一夜を、″学会家族″の皆さま方とゆっくり語り合うような思いで、懇談的に話をさせていただきたい。
 本日は青年部の諸君も多く参加されているが、皆さま方のなかには、淡く美しい″初恋″の思い出を持っている人もいるであろう。初恋といえば″初恋の味・カルピス″を思い浮かべる人もいるようだ。
 この「カルピス」は、サンスクリット語の″サルピス″つまり「醍醐味だいごみ」(乳を精製した最高の味)に由来する。──ご存じのように仏法では、最高の教典である法華経をたとえて、「醍醐味」という場合がある。また、カルピスの原料である牛乳にはカルシウムが多く含まれている。この「サルピス」と「カルシウム」を結びつけて、「カルピス」の名がつけられたそうである。
 先日、本部の職員が、近隣のカルピス関係の会社を訪問した。その折、その会社の社長さんが、次のように語っておられたという。
 「名誉会長は外国の方に会われたり、東奔西走で大変ですね。さまざまに言われていますが、亡くなった三島海雲(カルピスの創設者)が言っていました。『敵が現れるということは、カルピスが素晴らしいからだ。競争相手がいなくなったら、おごってだめになってしまう』ということです。私たちは、そう言われて育てられました。私も、そういう目で学会を見ています」と。
 まことに鋭い創設者の言葉であり、また、さすがは老舗しにせの社長さんの言葉であると、私は感銘を覚えた。
 今日では、多くの炯眼けいがんの人々が、学会の真実の姿を理解し、共感を寄せている。
 何が真実であり、何が虚構きょこうであるか。憶測おくそくや想像、そして大げさに誇張した情報が氾濫はんらんする現代にあって、私どもはあらゆる事象の本質、真偽しんぎを見抜く鋭い″眼″をもたねばならない。
 私も、ことの本質を見極め、常に的確に対処することを心がけてきたし、真実を愛し、真実を飾ることなく、ありのままに語ってきたつもりである。
2  さて、つい先日、ある著名な、日本人の学者からお手紙を頂戴した。そこには私が近著『私の人間学』をお贈りしたことへの丁重な謝辞とともに、次のようにしるされていた。私信ではあるが、御礼の意を込めて、またありのままの事実として、紹介させていただきたい。
 「先生には相不変あいかわりませず御健勝にて、東奔西走、実に絶倫なる御活躍の日々をお過ごしの御事と存じます」
 「奔流の如く止まることのない先生の御創造力には、何人なんぴとか及ぶ者がございましょう。私など、ただもう先生の無限の御精神力に圧倒せられ、驚嘆するばかりでございます」──。
 続いてドイツ・ボン大学の名誉教授であった故ヨーゼフ・デルボラフ博士と私との対談集『新しい人間像を求めて』の読後感が述べられている。
 読後感といっても、まだ日本語では出版されていない。今春、ドイツ語版が出版されたばかりである。この方は、このドイツ語版で読まれたわけである。ちょうど大学の関係でドイツに行っておられ、帰国された直後だったようである。
 「この夏は、この御作を少くとも読了しようと懸命になり、ようやくドイツ語の方のデルボラフ教授との御対談を拝読しおえたところでございます。
 教授はボン大学にける哲学、教育学の世界的な権威であります。先生は又アジアを代表する権威として、ここにはじめて東西の文化と信念があい会し、相対決したことになります。これまでも幾度か東西の文化と信念が相会し、対決したことがございましたが、いずれもいまだ学識に於いて不備であり、小規模でありましたため、本質と本質が対決し、批判し合う所までは行きませんでした。
 しかしこのたびの先生とデルボラフ教授の出会いと対決に於いて、初めて東西の文化と真理が、仮面を付けず、真向まっこうから、歯にきぬを着せず、出会し合い、批判したことを感じました。
 拝読し合ううちに私自身も思わず興奮こうふんせずにはいられませんでした。一言一言ここに真理と真理が激突し合い、斬(き)り結ぶ刀と刀がここに閃々せんせんたる火花を散らす思いをいたしました。
 まことにホーマーの『イリアッド』か、プラトンの弁証法でも読んでいるような壮観でございました。思わず手に汗を握ったのでございます」
 この方は私もよく存じあげている一流の学者であり、一流の人物にふさわしく、人格もまたすぐれた方である。デルボラフ博士も同様であった。ライン川に浮かぶ船上で率直に語り合ったことが懐かしく思い出される。
 総じてこのような人物は、ウソは通じない。すべて見破られてしまう。また、こちらの方でもウソやお世辞は、すぐに分かるものだ。読んでもいない本を「読んだ」ととりつくろっても、少しつっこんで聞いてみれば、たちどころにわかってしまう。
 こうした方々はまた、いつわりやハッタリがない。みな謙虚である。謙虚であるからこそ真実が真実のままに、くっきりと心に映し出される。おごれる目には眼前の事実も、ゆがんで見える。指導的立場になればなるほど、この点を深く自戒しなければならない。
 余談になるが、先日、私が監修し、聖教新聞に連載している「白米一俵御書に学ぶ」(静岡県青年部編)の中で「世間」について述べられていた(九月十日付)。
 あまり読まれた人もいないかもしれないが、なかに「世間」の″虚妄こもう″の義に触れて、世間は「真理に反する誤った見解が満ちあふれている」と。また世間は「真理を隠す」「煩悩ぼんのうによって真理が隠蔽いんぺいされる虚妄の世界である」とある。
 私どもは、仏法の光で、世間のやみを照らしていく立場である。世間の虚妄を打ち破っていく使命を忘れてはならない。
 書信の文は続く。
 「(東西の対決の)勝敗はうべきではございませんが(中略)流石(さすが)のデルボラフ教授も偉大なる仏法の前には云うべき言葉もなく、沈黙せざるを得なかったのでございます」
 「ルネッサンス以前の欧州を前代未聞の堕落にみちびいたのも、キリスト教でありました。
 デルボラフ教授もついに『仏教はキリスト教よりまさっている』と告白せずにはいられませんでした。
 先生のデルボラフ教授との対談は、この意味に於いて歴史的な、今世紀の最も偉大なる書であると存じます。
 なお御手紙には書けませんが、この御著書から私は限りない多くの御教示を受けました。
 今欧州では仏教がブームとなっておりますが、その基盤を成すのは必ず御著書であると存じます。その意味に於きましても、二重の意味で重ねてあつく御礼申しあげます」と。
 私個人にとっては、過分の称賛しょうさんと思い、恐縮きょうしゅくしている次第であるが、私はただ、仏法の偉大さを、後世何百年先をも見すえながら、あらゆる角度から語り、残しておきたい。
 この対談集も、この思いから取り組み、結実したものである。その私の気持ちを深く読みとってくださったことに、感謝の思いを込め、紹介させていただいた。
3  誠実・謙虚の人に信頼の輝き
 また、このほど中国では故ペッチェイ博士(ローマクラブ創設者)と私との対談集「二十一世紀への警鐘」(国際広播出版社刊)が出版された。
 相前後して、中国でこれまで何冊か私の書物を出版してくださった吉林きつりん人民出版社の代表から礼状が届いた。そこには、良書ができた喜びと感謝の念を、次の文を引きながら、縷々るるしたためてあった。
 「恩を知るは大悲の本なり。善業を開くの初門なり。恩を知らざる者は畜生よりはなはだし」と。
 「大智度論」の有名な文と記憶するが、このように妙法をもっていない方でも、「知恩」「報恩」が人間の根本であることを強調している。

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