Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第七回本部幹部会 民衆の大地で″精神の戦い″

1988.7.26 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

前後
1  世界広布の「時」来る
 広宣流布のために日夜つくされている全国の同志の皆さま方に対し、私は心から「ご苦労さまです」と申し上げたい。
 総本山大石寺の開創七百年の大佳節も目前である。その年、明後一九九〇年には学会も創立六十周年を迎える。その大いなる希望の節を前に、この夏、世界二十三カ国から、広布の青年リーダーたちが来日し、日蓮大聖人の仏法を真剣に研鑽しあった。
 これは、表面は小さな動きのように見えるかもしれない。また社会から注目されることもないであろう。しかし因果倶時ぐじの法理に照らし、その意義の深さは、計り知れない。必ずや将来、人類のために、大きく開花し、結実していくことを確信する。
 そして私は、この姿をだれよりも喜ばれているのは、大聖人であられ、そして御開山日興上人であられると拝する。
 私の胸には、日興上人の次の仰せが、強く深く、ひびき、またせまってくる。すなわち日興上人は弟子の日順師に命じて「五人所破抄」を起草きそうさせられ、御自身の正義を明確に後世に述べ伝えておられる。
 いわく「西天の仏法東漸の時・既に梵音を飜じて倭漢に伝うるが如く本朝の聖語も広宣の日は亦仮字を訳して梵震に通ず可し」と。
 すなわち──かつてインドの仏法が次第に東へと向かった時、インドのサンスクリットの音を漢語に翻訳ほんやくして、中国へ、日本へと伝えられた。それと同様に、日本の、大聖人が使われた尊き言葉も、広宣流布の時には、かな(で書かれた御書)を訳して、インドへも、中国(震旦)へも、世界中に流通していくべきである──との御遺命であり、必ずそうなるとの御予見である。
 日興上人は、師敵対の五老僧らの変節の姿を一面では嘆かれつつ、胸中では悠然ゆうぜんと見おろしておられた。そして、今日の世界広布の「時」を、はるかに遠望されていた。
 私どもは門下として、この偉大なる御境界を深く、また真摯しんしに拝していかねばならない。この日興上人の御確信をあおいで、私も世界の広布に走った。御書の翻訳も厳たる軌道きどうに乗りつつある。
 そして今、いかなる不思議な約束であろうか、まさに、この時に、はるか世界の各地から、使命の若人たちが一時に集いきたった。日興上人の仰せを、そのまま実現するため、世界の広宣流布のために立ち上がった青年リーダーたちである。私は、その輝くばかりの、りりしき姿を最大にたたえたい。
2  かな文字の御書に民衆仏法の心
 ご承知の通り、五老僧は権力の迫害を恐れ「天台沙門しゃもん」と称した。天台宗の権威のカゲに隠れ、「私は天台の弟子です」と名のることで、圧迫をようとしたのである。
 それは大聖人門下としての「誇り」を捨て去り、どろにまみれさせる背信であった。権力への卑屈ひくつな迎合によるみずからの「保身」である。退転者のこの本質は、いつの世も変わらない。
 大聖人の仏法はしき権威・権力と、真っ向から戦う民衆の宗教である。にもかかわらず、世間の権威にすり寄り、権力にこびへつらい、ただ見ばえと格好の良い方へと、信念を捨て転身していく。その根底はいやしく、憶病な「保身」以外の何ものでもない。要するに、権威に弱い自らの心に負けただけの話である。そうした″格好主義″の五老僧的な体質は、彼らの行動の、いたるところに表れている。大聖人の御書の扱いにおいても、そうであった。
 五老僧は、天台宗の漢籍かんせき(漢文で書かれた書籍)を重視した。現代でいえば、ことさらに″横文字″を重んじたり、難しい哲学書を、わかりにくいがゆえに、ありがたがったりする態度に通じよう。
 そして彼らは最も大切な師・大聖人の御書を見くだし、バカにしていった。とくに大聖人が在家の門下のために、わかりやすい″かな文字″で書かれた御手紙に対する軽視と蔑視べっしは、まことに、はなはだしいものであった。彼らは、大聖人御直筆の御書を、あろうことか、すき返して新しい紙にしたり、焼き捨てさえした。もしも後世に残すのならば、漢文に書きかえよとも主張した。
 何という増上慢であろうか。彼らの根底には、大恩ある師をもあなどる心があった。御本仏に親しく教えを受けながら、その偉大さが彼らには、まったくわかっていなかった。哀れというほかはない。
 次元は異なるが、かつて戸田先生の指導が、余りにもやさしく、かみくだいて説かれているゆえに軽く見た人間もいた。五老僧らの慢心に通じる姿であろう。
3  そうしたなか、日興上人ただ御一人が、大聖人の御法門を完璧かんぺき令法久住りょうぼうくじゅうせねばならないという大責任感のもとに、懸命に御書の収集と筆写、保全に当たられた。また門下に御書を講じ、大聖人の正義を伝えきっていかれた。
 その日興上人の赤誠をも、五老僧らは、「先師の恥辱を顕す」すなわち″かな文字の御書を残すのは、大聖人のはじを顕すようなものだ″と誹謗ひぼうする始末であった。
 まことに根底の「一念」の狂いは恐ろしい。はじめは目に見えない、わずかな一念の狂いが、やがて常軌じょうきいっした振る舞いとなって、表面にあらわれてくる──。
 大聖人は「よくわかるように」「心に入るように」と、庶民を抱きかかえられながら、かな文字を使い、わかりやすい言葉で大法を説き、残してくださった。
 その師匠の大慈大悲の御心を五老僧は踏みにじった。浅はかというには、余りにもみにく心根こころねである。日興上人は彼らに巣くった″民衆への蔑視″を、また、その裏返しにほかならない″権力へのへつらい″の心を厳然と破折しておられる。
 民衆を守り、正法を守るためには、謗法ほうぼうとは一片の妥協も許されない。どこまでも、厳格な上にも厳格に処していかねばならない。それが日興上人の御精神であるし、学会精神である。要領よく妥協した方が、ある意味で″利口りこう″に見える場合も多い。しかし信心は信心である。憶病なる妥協は、信心の死を意味する。
 ″民衆蔑視″と″権威へのこびへつらい″──五老僧を師敵対の転落の道に追いやったのは、他のだれでもない、彼ら自身であった。総じて、いかなるもっともらしい理由をつけようとも、退転は本人自身に原因がある。本人が悪いのである。にもかかわらず、自分の行きづまりや不幸を、他人のせいにして、人をうらみ、にくんでいくのも退転者の常である。
 また、かりに退転や反逆の姿を現していなくとも、組織上の立場や、さまざまな権威を利用し、庶民を視して、いばり、横暴に君臨していく──そうした行為そのものが、すでに五老僧に通じる″悪″であることを鋭く見ぬかねばならない。そして芽のうちにつみとっておかねばならない。
 そうでなければ、いつしか組織のなかでガン細胞のように広がり、その結果、本当にまじめで、純真な庶民が苦しんでしまう。指導者として、それは絶対に許すわけにはいかない。
 組織の拡大とともに、どの宗教もたどってきたであろう、こうした宿命的ともいうべき悪しき傾向に対し、私は身をていして戦っているつもりである。

1
1