Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二回神奈川県支部長会 ″精神の力″で文明を蘇生

1988.7.19 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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1  万代の発展への鋭き仏法史観で
 皆さま、ご承知のように、現在、SGI(創価学会インタナショナル)各国の青年たちが研修登山会のため来日している。遠いところ、一人一人、それは大変な苦労をし、仏法を求めてこられた。何と尊い姿であろうか。
 私は学会本部で、お会いしたブラジルの青年たちに、こう言った。
 「今、日本の青年部のなかで、法のため、広布のために、自らお金をため、自発的にブラジルへと弘教・指導に出かける青年が、いったい何人いるだろうか。かりに、そう考えると、諸君たちの行動が、どれほど尊いことか。その信心を、私は心から賛嘆する」と。
 信心の「心」が、どうであるか。これが一切の根本の基準となる。格好でもない。立場でもない。その意味において、私どもはこの求道の青年たちを最大にたたえ、尊敬し、また真摯しんしに学んでいくべきであると私は思う。
2  ところで、何人かの通訳の方と懇談した折、各国の青年から幾つかの質問が寄せられたことを聞いた。そのうちの一つは、「臓器移植」の問題である。
 世界的な大きな課題であり、その是非ぜひ、基準等をめぐって、各界の論議も盛んである。これについては、人類の未来にとって、まことに重要なテーマであるだけに、十分に検討を重ねていくべきであろう。私も「永遠の生命観」「生命の尊厳観」を説いた日蓮大聖人の仏法に基づき、慎重に、また慎重に、結論を出すべき重要な問題と思っている。
 質問のもう一つは「天台てんだいの仏法」に関してである。
 ──「釈尊の仏法」については、学ぶ機会が多い。「日蓮大聖人の仏法」については、行学ともに日々、励んでいる。しかし、何となく″谷間″というか「天台の仏法」については、よくわからないままであると。
 御書を拝すると、天台・伝教でんぎょうの名が繰り返し記されているが、先輩に、どういう人物かと質問しても、うまく、はぐらかされたり、「昔の像法時代のことだから、末法の我々には関係ない」と″指導″されたりして、十分には納得できない──と、こういう趣旨しゅしであった。
 諸外国の人々は多くの場合、理論的にも、きちんと「納得」したいという真剣な探究心が日本人以上に強いようである。
 私は指導者として、こうした問いに答える責任がある。そこで本日は、この天台の仏法に関して少々、述べてみたい。あまり難しくないように気くばりするつもりであり、ご安心願いたい。また時間の都合上、とくに天台の仏法の「興亡こうぼう」に焦点を当てて、語らせていただく。
3  あれは昭和二十九年の夏八月のことであった。私は戸田先生のお供をして、北海道へ行った。当時、先生は五十四歳。私は二十六歳。
 ──若く、希望に燃えていた。日蓮正宗創価学会を、これから、どのように大発展させていくか。そのことを先生のもとで、先生に一つ一つ教わりながら、ひたすら考え、展望していた。未来への、そうした壮大な心をもって、懸命に戸田先生に仕えていた。すばらしい青春時代だったと、かえりみて私には、いささかのいもない。
 この折、先生は故郷の厚田村へも私を連れていってくださった。
 当時、東京の羽田から北海道の千歳ちとせまでは、飛行機で約三時間──。先生と私、ただ二人しての旅であった。
 さて機中では「禁酒」である。これが大変だった。酒豪の先生が、「苦しいなぁ」と笑っておられた姿が今も目に浮かぶ。いつも、ありのままの、人間性そのものの先生であった。
 しかも、まだジェット機ではない。機体もよくゆれた。あんまり、激しくゆれるので、先生が突然、「大作、勤行しろ」と言われた時には、本当にこまった。そんな非常識なと思ったが、今なおなつかしい思い出である。
 ともあれ、その折に、戸田先生が言われた一言が忘れられない。
 「大作、君たちのまごの孫の代までの構想は教え残しておくからな」と──。
 あとは全部、その通りに、お前がやっていけとの″遺言″のお心であった。自分はいつ死ぬかもしれない。託すのは若い青年しかない──と。
 美しき雲海を見おろす機上にあって、先生は学会の未来、広布の未来を、はるかに思いめぐらしておられた。窓の外には、白雲の輝きがてしなく続いていた。
 そうした戸田先生のご構想を、私は熟知していた。そして、すべて実現してきた。霊鷲山りょうじゅせんで再び戸田先生の御前にいっても、私は胸を張って、「先生、お言葉の通り、広宣流布をやってきました」と申し上げられるつもりである。

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