Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第六回本部幹部会 堂々と広宣流布の志高く

1988.6.21 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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1  「互に師弟」と学びあい
 全国の代表が集っての幹部会、心からご苦労さまと申し上げたい。今回は、主に御書を拝しつつ、広布の史実を中心にしながら懇談的に話を進めたい。大切なのは、信心の「本筋」「原理・原則」である。私たちはあくまでも、そこから離れてはならないと思うからである。
 文永九年(一二七二年)、御流罪の地・佐渡におられた大聖人は、鎌倉で留守を守っていた日昭をはじめとする門下の長老たちに御手紙を送られる。
 すなわち「べん殿御消息」に、次のように仰せである。
 「総じては・これよりして・いたらん人にはりて法門御聴聞有るべし互に師弟と為らんか」――総じては、こちら(佐渡の大聖人のもと)から法門を身につけて戻った人を頼りとして、法門を聴聞するようにしなさい。互いに師弟となるであろう――と。
 日昭は、大聖人より一歳年長であり、この時五十二歳。最も先輩格の門下であった。しかし大聖人は、大難のただ中にあられながらも、佐渡の地で重要な法門、未曾有みぞうの深義を説かれていた。ゆえに、その大聖人より直接の御指南を受けた人々が、鎌倉に戻ってきたならば、たとえ自分(日昭)より後輩であっても、謙虚に法門を学んでいきなさい。どこまでも求道の姿勢を失ってはならない、と仰せられている。
 まことに「道理」であり、重要な御言葉と思う。
 ″自分の方が信心歴が古い″″役職が違う″とか、″立場が上である″といった考えにおちいるならば、そこにはもはや、みずみずしい求道心はない。これは、今までの退転者や反逆者に多く共通した姿でもあった。
 「心」は、不思議である。またこわいものである。求道の一念を失うならば、それまでどんなに信心に励み、功労があっても、どんどん「おくれ」をとり、いつしか信心が分からなくなってしまう。その厳しきいましめの御指南であるとも拝したい。
 しかし、一方で大聖人は、留守を守る日昭らの立場も、十二分に尊重しておられた。それは、「互に師弟」との仰せにあらわれている通りである。
 もとより、ここで仰せの「師弟」とは、仏法の根本的な次元でのそれではない。あくまでも、先輩と後輩との関係において述べられた御言葉である。
 つまり、大聖人の現在の御心境や法門のことについては、留守を守る人々は佐渡から戻った人々から学んでいきなさい。それとともに佐渡から戻った人々は、先輩たちに対して、相談すべきは相談していくように、との仰せと拝することもできよう。いずれにせよ、門下が互いにあいおぎない合うべきことを、「互に師弟」との御言葉に込められていると拝察される。
2  学会においても同じである。″自分は幹部だから″″高い役職だから″後輩の言うことを聞く必要はない、などというのは本末転倒である。どこまでも「信心」が根本である。組織上の立場をすべての基準とするいき方は、正しき信心の姿勢ではない。
 人間の織りなす世界には、年齢や立場など、さまざまな違いがある。問題は、その違いを生かしながら、絶妙な調和の世界とするか、反対に、複雑で感情的な葛藤かっとうの世界としてしまうか、である。
 その分かれ目は、やはり一人一人の「心」「一念」の姿勢にある。つねに、多くの人々から学び、成長していこうとの、みずみずしい「求道の心」を持っているかどうかにある。
 その意味において私どもは、どこまでも大聖人の仰せのごとく、御本尊を根本に、「法」のため、「広布」のため、共に学び合い、尊重しあい、守り合いながら、真摯しんしに生き抜いていきたい。
3  牧口初代会長が貫く「学は光」の求道の生涯
 さて初代会長・牧口先生は昭和十九年十月、獄中からの最後のハガキの中に「カントノ哲学ヲ精読シテ居ル」と書かれている。
 カント(一七二四〜一八〇四年)といえば、いうまでもなくドイツが生んだ、近代ヨーロッパを代表する大哲学者である。彼の哲学についても、私はいつの日か論じておきたいと思っている。
 それにしても、これは牧口先生が逝去せいきょされる約一カ月前の言葉である。しかも七十三歳というご高齢であった。「学は光」である。牧口先生は、その言葉のままに、最後の最後まで、真摯に学び、思想を深め続けた一生であられた。

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