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日蓮大聖人・池田大作

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第一回足立区支部長会 生命に開け″歓喜″の大空

1988.6.19 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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1  喜びあたえる仏法の指導者に
 お元気な足立あだちの皆さまに、お会いできて、私はうれしい。昨年末には、思いがけない、見事な大雪で、お目にかかる予定の会合が中止になってしまった。あれ以来″雪の足立″の印象が続いていたが、今日は、素晴らしい快晴となった何とか足立にお邪魔したいとの念願がかない、こうした、さわやかな一日を、皆さまと過ごせることを心から喜びたい。
 一昨日(六月十七日)、第一回小金井圏総会の席上、釈尊の十大弟子の一人、阿難あなんについて、少々お話しした。その後、もう少し″続き″をやってほしいという声も寄せられたので、仏典をもとに若干、ふれておきたい。
 阿難(アーナンダ)──その名の意味は「歓喜」ということである。
 阿難は、身に影のうごとく、我が師・釈尊に、徹底して仕えきった。たゆみも、中途半端はんぱもなかった。そして、地道にして、辛労しんろう多き二十年以上の歳月の果てに、自らの名の通りに、「歓喜」の境涯を大きく開いていった。まことに、仏弟子の模範ともいうべき一生であった。
 釈尊と阿難は、ある説では三十歳前後の年齢の差があったようだ。親子ほどの年の開きである。
 日蓮大聖人と日興上人も二十四歳の年齢差があられた。また、もとより同列には論じられないが、学会においては、牧口先生と戸田先生、戸田先生と私も親子くらいの年のちがいである。
 総じて、本格的な師弟の関係には、親のごとき世代から子の世代へという、共通する一つの方程式があるような気がする。
 こうした意味から、現在の青年部諸君こそ、学会の「後継者」の立場であることは間違いない。ゆえに徹底して自分を鍛えに鍛えていただきたい。その期待を込め、何らかの参考になればとの思いから、阿難の話もさせていただいている。
 師弟は、ある意味で親子以上の関係である。師匠は本物の後継の弟子を、我が子以上に大切に思うものだ。また弟子の成長ほど、うれしいものは、ほかにない。
 阿難の成長の姿を、誰よりも喜んだのも、師・釈尊であった。釈尊は入滅を前にして、我が弟子・阿難を次のようにたたえた。
 「出家・在家を問わず、また男女を問わず、阿難はどこに行っても、人々から歓喜をもって迎えられる。そして阿難の振る舞いを見、阿難の説法を聞く人は、皆ことごとく歓喜する」と──。
 自身を、そして友を、いかなる時にも「歓喜の光彩」で包み込んでいく。これが仏法の指導者である。
 法を説ける身として、我が心に無上の歓喜の思いをわきたたせながら、人々をして生命の奥底からの喜びに目覚めさせていく。陽光が暗雲を払い、みるみる青空が広がっていくように、会う人ごとに希望と安心を与え、「信心の大歓喜」へと生命を開かせていく。ここに仏法のリーダーの存在の意義があり、戦いがある。また真実の学会精神がある。
2  指定の道ありて広布は永遠
 師弟の道を、まっとうし、自身も成仏の大道を進む。他の人も成仏という歓喜の大道に導いていく。これが仏法を奉じた者の根本の目的である。
 この目的が定まっているかいなか──。目的への一念が、はっきりと定まっている人は強い。何があろうとも、すべてが成長へのかてとなる。その人には、動揺もなければ、グチもない。ふざけや要領が自らの損失であることが明らかに見えてくる。そして、苦しみは勇気を、悩みは知恵を、友の嘆きは限りなき慈愛を、我が胸中に開いてくれる。
 反対に指導者の傲慢ごうまんな″いばり″や、冷酷れいこくな振る舞いは、「友を歓喜させる」という仏法の目的とは正反対である。これまで信心を貫けず、ちていった人間は、この目的観があまりにも弱く、また狂いがあった。
3  先日、お話ししたように、阿難は、実の兄(弟という説もある)の提婆達多だいばだったが、師・釈尊の怨敵おんてきとなり、反逆者となってしまった。提婆は師を殺害しようとさえした。
 もとより仏法においては、すべて個人の責任であり、兄弟、親族といえども生命の因果は、その人自身の問題である。しかし、現実のうえでは、兄のために、阿難も少なからず、他の門下たちから、冷たくあしらわれたこともあったかもしれない。また自分自身も胸の奥に、言い知れぬわびしさや、悲哀を抱いていたにちがいない。
 しかし阿難は、師のもとに、そうしたすべてを逆に自らのバネに変えていった。そして修行の″坂道″を黙々と歩んだ。やがて法華経の会座えざにおいて、阿難は、未来に必ず成仏するとの記別きべつを釈尊から与えられた。
 釈尊は、何ものにもとらわれることなく、どこまでも公平無私に、弟子の一人一人を見ていた。生命それ自体の傾向性を見抜いていた。誰の兄弟だから良くない、誰の親族だから良い等といった情実には、まったく関係がなかった。そして時に包容し、時に厳愛の指導をしながら、それぞれを、長い目で見守り、想像を絶する忍耐で、はぐくんでいった。

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