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日蓮大聖人・池田大作

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第一回小金井圏総会 「雄大な事業は青年の仕事」

1988.6.17 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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1  ブラジル移住八十周年を祝福
 こうして、小金井の方々とお会いするのも、本当に久しぶりである。きょうの日を目指し、かつてない広布前進の実証を刻まれてきた皆さまに対し、心から祝福申し上げたい。
 あす(六月十八日)は「海外移住の日」である。皆さまは、″そんな記念日が日本にあったのか″と、思う方もおられるかもしれないが、我が国にとって、この日は、まことに重要な意義を刻む日といってよい。そこで、きょうは、そのことについて少々、語っておきたい。
 先日私は、日本人のブラジル移住八十周年を記念して来日された、児玉良一さんとお会いした。八十年前、初の移住船に乗ってブラジルへ渡られた児玉さんは、現在、九十三歳。しかし、背筋はピンと張り、表情は輝き、すがすがしい″青年″のおもむきをたたえられていた。
 私は、ブラジル移住の先駆者である児玉さんに対し″あなたは日伯(ブラジル)友好の「黄金の柱」の存在です″と申し上げた。氏は、私との出会いをことのほか喜んでくださり、あどけない″子供″のような笑顔でいらしたことが、まことに印象深い。滞日中には、皇太子殿下、また福田元総理とも会見されたようだ。
2  明治四十一年(一九○八年)、児玉さんは「笠戸丸」に乗って、ブラジルへ渡った。この時、乗船したのは七百八十一人。このうち、今も健在でいらっしゃるのは、児玉さんを含めて四人であるという。
 出発した時、児玉少年は、わずか十三歳。船上に家族の姿もなく、たった一人の旅立ちであった。
 少年は、数百年続いた広島の旧家の長男であった。父親はづくりの職人であり、家は比較的に裕福であったようだ。普通なら、家督かとくを継ぐべき長男の児玉少年が、なにゆえブラジル行きを決めたか。
 当時、少年は、父親の仕事を手伝って、近隣の町々まで酢の配達に出かけた。元来、好奇心が旺盛おうせいな彼は、新しい町へ行って、自分の町にない珍しいものを見たり、さまざまな人に出会うのが楽しくて仕方がなかった。こうしたなかで、遠い異国へのあこがれが芽ばえ、徐々じょじょつのっていったようである。
 児玉さんは、当初、ハワイに渡りたいと考えていた。叔父おじが先にハワイへ移住し、成功を収めていたからだ。しかし当時、ハワイへの日本人の移住は、禁じられていた。
 そこへ、ブラジル移住の話が舞い込む。海外雄飛の夢に胸を躍らせていた児玉少年は、さっそく″ブラジルへ行きたい″と父親に打ち明けた。
 ブラジルがどこにあるか、それすら知る人の少ない時代である。当然、家族全員が反対であった。しかし、ブラジルへの夢は、どうしても消すことができなかった。彼は、父親のいいつけを守るなど努力を重ねながら説得を続け、なるべく早く日本に帰ることを条件に、ついに了解を得る。
 私どもの立場でいえば、家族の反対のなか、健気けなげに信心を貫いている青年の姿と、二重映しにも思える。
3  ようやく念願かなった彼は、四月二十八日、笠戸丸に乗って神戸港を出発。そして五十二日目の六月十八日、ブラジルのサントス港に到着した。「海外移住の日」が六月十八日と定められたのは、ここに起源があるわけである。まさに、笠戸丸の到着は、あらゆる国への移住を象徴する重要な出来事であった。
 五十二日間もの航海にあっては、嵐の日もあったかもしれない。心細くなったこともあったにちがいない。しかも、家族もなく、たった一人で乗り込んだ少年は、彼一人であった。
 だが、のちに児玉さんは、回想する。「大変な船旅ではあったが、つらいと思ったことはなかった。船員さんが、非常に親切にしてくれて、かわいがってくれた」と。児玉さんの当時の記憶は、八十年たった今も、きわめて鮮明である。
 子供のころに刻んだ思い出は、生涯、鮮烈に心に残り、光を放っていく。その後の人生、生き方にも、深く、大きな影響を及ぼしていくものだ。
 ゆえに私は、未来部の担当者の方々がどれほど大切であるか、と申し上げておきたい。高・中等、少年部の若き友に対しては、くれぐれも真心からの指導・激励をお願いしたい。
 少年少女の心は、まことに多感である。それだけに、一時の感情でしかったり、ウソをついたり、心にキズをつけてしまえば、取り返しのつかないことになる。反対に、多感な心に刻まれた真心の励ましが、どれほど生涯の成長の源泉となるか。後継の育成に当たる方々は、この点を強く銘記していただきたい。

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