Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第四回全国青年部幹部会 仏法は人類の希望の光

1988.5.28 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

前後
1  けさ、目を覚ますと、外は雨であった。昔から、なぜか青年部の重要な会合がある日は、大雨と決まっていた。やはり、″宿命″は変えられなかった。まことに″宿命転換″は難しいと話し合った。が、午後になると天気は回復し、みるみる晴れ間が広がってきた。これは、すごい。どうやら青年部も、″宿命″を打開したらしいということになった。まことに慶賀けいがにたえない。ともあれ″晴れやかな″青年部幹部会の開催を、心から祝福申し上げる。
 初代会長の牧口先生は、獄中にあっても、ドイツの大哲学者カントの著作を読まれた。そこできょうは、未来を担いゆく若き俊英しゅんえいの諸君に、カントの思想・哲学を論じながら、仏法思想の卓越性、学会の運動の先駆性などについて語ろうとも考えていた。
 しかし、若い人に聞くと、「カントは、どうも難しい感じがする」という。カントやヘーゲル、ゲーテというと、なんとなく″遠い存在″と感じてしまうようだ。いささか、さびしい気もするが、そういうわけで、カントの話は、きょうはやめにしたい。
2  私が全魂込め、スピーチするのは、諸君に少しでも、信心の精髄せいずいを学んでもらいたいからである。草創期にあっては、青年部は剣豪の修行のごとく、峻厳しゅんげんに教学と取り組み、徹底的に研さんに励んだ。近年は、そうした気風も、かなり薄らいでいるように思う。それだけに、きょうのような機会には、仏法の精髄や正宗の清流について、論じておきたいと思う。
 諸君の前途は、大いなる″希望″の連続である。信心とは、いかなる苦難の山も、悲嘆の谷も、悠々と乗り越えゆく原動力であり、そのための「法則」である。
 諸君もご存じの通り、私は十九歳で入信した。貧しく、平凡であるうえに、病弱でもあった。胸をわずらい、何回か喀血かっけつもした。体格も、今でこそやや太めであるが、当時は痩身そうしんで、まことにスマートであった。
 しかし私は、二十代の青春を、大法弘通の誓いを胸に、走りに走った。恩師・戸田先生のもと、徹して学び、不眠不休で戦った。そして、三十代も、一心不乱に働いた。まっしぐらに広布の大目的へ前進した。
 それは、四十代、五十代も同じである。いつ倒れても悔いが残らぬよう、私は、すべてをなげうって、広宣流布のため、学会のために戦ってきたつもりである。
 そして今、私は六十歳。病弱であった私が、こうして還暦を迎えることができた。これからも、なお一層、広布のために動き、祈り、戦っていく決意である。そこにこそ、仏法者として、また人間としての最極の生き方があると、確信するからだ。
3  仏法を妨げる魔の働き
 法華経の薬王菩薩本事品第二十三に、次の一節がある。
 「我が滅度ののち、後の五百歳のうちに、閻浮提えんぶだいに広宣流布して、断絶して、悪魔、魔民、諸天、りゅう夜叉やしゃ鳩槃荼くはんだ等に、便たよりを得せしむること無かれ」(妙法華経並開結六〇五㌻)
 ――私(釈尊)の滅後の第五の五百年のうちに、全世界に広宣流布せよ。決して断絶させられるようなことがあってはならない。悪魔、魔民、天、龍、夜叉、鳩槃荼等に、跳梁ちょうりょうの機会を与えてはならない――と。
 ここでいう″釈尊滅後の第五の五百年″とは、末法の初めの五百年を指すが、そのうえで、末法万年尽未来際じんみらいさいにわたる重要な指針である。
 つまり末法の時代に″全世界に広宣流布せよ。決して断絶させられてはならない″″魔の勢力を、絶対にのさばらせてはいけない″と、釈尊が厳命されている。これはまた、日蓮大聖人の御心であり、御本仏の峻厳な御遺命である。

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