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日蓮大聖人・池田大作

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台東、中央区記念合同総会 人生最終章を信心で飾れ

1988.5.11 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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1  ″向上の道″こそ″人間の道″
 台東区に、このような素晴らしい、皆さま方の講堂が完成し、心から祝福申し上げたい。かつての小さな台東会館からみれば、まるで夢のような殿堂であり、広布の大いなる発展を象徴している。まことに喜びにたえない。また、本日は台東・中央区の合同総会が急に開催されることになり申しわけない気持ちであるが、お元気な皆さまにお会いでき、本当にうれしく思う。
 昨日、聞いた話である。婦人部の親類の方が言っていたそうだ。「学会は本当にお人好しの集まりだ。以前は、一生懸命に供養した僧侶に裏切られ、いじめられた。今度は、一生懸命に支援した議員に裏切られ、全く今の時代に、こんなにお人好しの団体は世界中にないわよ」と言っていたそうだ。
 また「みんな学会の方々のように、まじめでないから、気をつけたほうがいいですよ」。「世間は、ずるくて、利用しあって自分だけが良くなればよいという人ばかりですよ」と。
 婦人部の方はこれを聞いて、「指導すべき立場の私が、反対に指導されてしまったわ」と。戸田先生は、よく荒海の玄界灘で育った魚は、身が引き締まっておいしい、と言われた。人間も信心もさまざまなことがあって鍛えられる。
 私も多くの世界の著名人と会ったが、自らの主義主張のために牢獄に入った人、生命に及ぶほどの迫害を経験した人ほど、深い、確固たる自分をつくりあげている。
 いわんや仏法は、もっと奥深い人格、境涯を説いている。信仰者にとって、苦難こそ大いなる喜びである。
 また、さまざまな悪口を私達に言う人達は、毒鼓の縁で、これまた仏縁を結ぶことになる。これが妙法の力用である。ゆえに、朗らかにまた朗らかに悠々と進んでいけばよいのである。
 私は時間を見つけては、功労の方々のお宅を訪問し、激励するよう努めている。先日も、八十三歳になられたご婦人のお宅にうかがった。この方は長年にわたって真面目に信心を貫き、広布に尽力された功労者である。この方が、しみじみと語っていた。
 「若いころに、学会活動で、広布のために戦う場所をいただいた。そのご縁で、今でも一日に一人は、そのころ面倒をみていた人が会いに来てくれ、いろいろな体験を聞かせてくれます」と。
 そして、三十年来激励し、成長を見守ってきた三人の方の体験を、私に話してくださった。指導部の方々には本当に教えられることが多い。
 まず、「Tさんという人は、昔、地区部長になって成果が出ないので班長に戻った。しかし、信心だけは一生懸命に励んだ。奥さんが肺ガンになった時には″よし、今が信心の力をみせるときだ″と、題目を唱えに唱えて頑張った。そして、とうとう奥さんも元気になって退院したそうです」と。
 草創期の活動は厳しかった。Tさんのように地区部長になっても、折伏の成果が出なければ、時には班長に″下がる″場合もあった。もちろん役職の上下と信心の強弱とはちがう。それは何よりも本人の奮起と成長を促すためであった。が、なかには役職が下がったことを根にもったり、怨嫉した人もいた。
 しかし、Tさんは一切を前向きにとらえて、信心に励んだ。ここにTさんのえらさがあった。
 御書に「心こそ大切なれ」、また「心を悟り知るを名けて如来と云う」と仰せである。いかに「心」を知り、「心」をどのように働かせていくか、そこに信心の精髄があるといってよい。
 その意味で、私どもの「指導」の眼目も、すべてを決定していく目に見えぬ「一念」「心」を成長と向上の方向に向かわしめ、鍛え磨いていくことにあるといえよう。
 ゆえに時として厳しく言わざるをえない場合もあるだろう。しかし、いくら誠意と真心を尽くしても怨みを抱いたり、逆らったりする人もいる。それで、もし、信心の正しい軌道から遠ざかり、幸福の道からはずれても、それは本人の責任と言わざるをえない。
 ともあれ、Tさんは、立派に信心の道を貫き通したがゆえに、勝利の人生を飾ることができた。
2  次に一婦人の体験を話してくださった。
 「この人には九人の子供がいますが、ご主人はあまり信心に熱心ではありません。このご主人が病気で倒れた時、唱題しようとしないご主人に代わって、九人の子供がかわるがわる唱題してくれたそうです。今は生活も″万々歳″とのことで、近ごろ珍しい和服姿でみえて、広布のお使いができると喜んでいました」と――。
 ″万々歳″とはいかにも指導部らしい、たいへんに素朴な表現ではあるが、信心の歓喜が生き生きと伝わってくる。
 信心にあまり熱心でない夫、そして九人の子供さん。おそらく、信心の活動も存分にできなかっただろうし、生活の苦労も、並大抵ではなかったと想像する。私には、夫をもり立て、子供達に信心を教えながら奮闘する一婦人の姿が目に浮かぶ。
 だが、いったん唱題をはじめれば、それは一人っ子の家庭の″九倍″である。これは強い。
3  さらに三人目のHさんについては、「Hさんは、かつては立派な家もあり、座談会場でもありましたが、グチが多かった人です。今は寝たきりの生活で、独り暮らしだそうです。電話では話せますが、信心は弱いようです。私は気の毒でなりません」と。
 そして「この三人は、かつて私が『三人組』と呼んで育ててきた人達ですが、それぞれ三十年以上の信心で、大きな差がついてしまいました。三人の姿は、私に信心の指導をしてくれているようです」と。
 三十年という歳月は、さまざまな人生模様を織りなしていく。たとえ一時期、裕福そうにみえたり、力を誇るようにみえても、人生の行く末というものは分からない。結局、この人生の「最終章」をいかに総仕上げできたかが最も大切ではないだろうか。
 私どもの信仰は、この人生の″最終章″を勝利と安穏で飾りゆく根本の方軌である。信心を貫き通した人が、いかに素晴らしい安らぎと満足の姿を示していることか。学会には、この八十三歳のご婦人をはじめ、多くの″模範″となる方々がおられて、私は本当にうれしく思っている。
 この高齢のご婦人はさらに、「毎日、御書を五ページ拝読していますが、頭が悪いので読み返しをして、なかなか進みません。死ぬまでには読みきりたいと思っています」と、近況を語っていた。″頭が悪い″どころか、実に立派な研さんと求道の姿ではないか。
 また、「御本尊様と一緒にいられるので、寂しくはありません」とも語っていた。私は、心から所願満足の人生を楽しんでいる姿に感動した。なお、この方は「ボケにならないように、自分でできることは全部自分でいたします」と毅然と言われていたことも、″若い″皆さまにお伝えしておきたい。

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