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日蓮大聖人・池田大作

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埼玉・朝霞圏幹部会 正法の清流守る「和合僧」を

1988.5.8 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

前後
1  信心は試練のなかで深まる
 「5・3」の記念行事は、三日間とも、晴天のなか、素晴らしい慶祝の集いとすることができた。中心会場となった八王子の方々をはじめ、全国の同志の方々に心から感謝申し上げたい。
 当初の予定では、この幹部会は、私が朝霞あさか文化会館を訪問し、開催することになっていた。だが、さまざまな事情から、このように皆さま方に、学会本部に参集いただいた。遠路、はるばるおいでいただき、本当に恐縮している。心からご苦労さまと申し上げたい。
 学会の会合は、いうまでもなく、広布の前進と信心の深化のためである。
 もしも、私が朝霞に行けば、遠くへ出かけた分だけ私の功徳も大きかったにちがいない。きょうは皆さまが、わざわざ本部まで電車賃を払い、時間をかけてこられた。それだけ、皆さま方の功徳もいや増して大きいと、私は確信する。また、そう確信していくことが、信心であると思う。
 さて、朝霞圏の地域は、朝霞市と和光市からなる。字義からして、朝霞は″朝がすみ″、和光は″なごやかな光″。いずれも、穏やかにして詩情をたたえた名である。
 この朝霞圏の地は、私にとっても、若き日に広布の足跡を刻んだ、思い出深い″青春の舞台″である。初めて訪れたのが、三十二年前の昭和三十一年九月二十七日。朝霞公民館での「志木しき支部幹部会」に出席するためであった。
 それ以前には、昭和二十六年から二年間、同支部の川越地区の御書講義を、担当した。一回一回、全魂を注いで講義したことが、今も懐かしい。そのゆかり深き地から皆さまをお迎えし、私は、うれしい気持ちでいっぱいである。
2  日蓮大聖人の当時、正法の僧侶や信徒の数は、今と比べればかなり少なかったと考えられる。それでも、五老僧をはじめ多くが、自らの増上慢から師敵対し、地獄への道を歩んだ。昭和に入っても、戦時下に、神本仏迹論しんぽんぶっしゃくろんのような邪説を唱えたやからがいた。いわんや、これだけの正法の興隆と広布の広がりのなかでは、さまざまな人間がいる。幹部で退転者が出たといっても、大聖人門下の退転者に比べれば、まったく取るに足らない存在であり、驚くにあたらない。
 もともと、六道の凡夫の住処である三界は、魔が充満する、いわば″魔のすみか″である。信心にわずかでもスキがあれば、すぐに悪鬼がその身に入り、魔の眷属となる。いわゆる「悪鬼入其身あっきにゅうごしん」の姿である。
 多くの人々がいう彼らの共通点は、名聞名利や金銭、女性問題等で学会にいられなくなったことである。そして、口だけはうまい。
 仏法では、魔は魔と見破れば、すでにヌケがらのようなものである。
 道に大石がころがっていれば、前進を妨げる。ゆえに、これは魔である。しかし、その石は、どければよいのである。少々の低次元な魔の蠢動しゅんどうなど悠々と見おろし、むしろ信心を深めていく良い機会と思っていけばよい。
3  いかなる道であれ、試練なき人生などありえない。人は、さまざまな試練を経て自身を鍛え、成長していく。信心の世界でも、それは同じである。
 学校にも、試験という試練がある。この試練に挑み、勝利してこそ卒業できる。柔道であれ、剣道であれ、歴戦を勝ち抜いてきた強者に勝ってこそ、日本一の「栄冠」に輝く。それは、当事者にとっては大変な試練である。だが、その試練なくして、輝かしい「栄光」も「歓喜」もない。もし、どこにも試験や試合がなかったら、目標もなく、ただ惰性だせいの人生となってしまうにちがいない。
 ともあれ、御聖訓に照らし、障魔との戦いは、成仏への不可欠な″鍛え″である。ましてや、正法に違背いはいした連中に悩まされることが、自分の罪を消してくれる。それだけ、ありがたい存在といわねばならない。ともかく仏法には、絶対に無駄がないのである。

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