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日蓮大聖人・池田大作

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第三千葉県記念幹部会 広宣と福徳の城を堅固に

1988.4.24 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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1  風雪に耐えた柏に功徳よ薫れ
 本日は、日曜日にもかかわらず、勇んで仏道修行のため、広宣流布のために、こうして集われた皆さま方の信心に心から敬意を表したい。また、「大変にご苦労さまです」と申し上げたい。
 休日の過ごし方は、人さまざまである。いな休日の使い方にこそ、人それぞれの生き方が鮮明に映し出されるのかもしれない。
 何となくテレビを見て終わる人、趣味に使う人、家族サービスに努める人。なかには休日のたびに、夫婦ゲンカを恒例行事のように、繰り返す人もいるかもしれない。はりきって旅行に出かけ、楽しいのかと思うと、「疲れた、疲れた」とグチばかりいう人もいる。
2  それはそれとして、誰しも休日は自由である。自由であるがゆえに、最も価値的に、最も充実して過ごしたいものだと私は思う。
 結論的にいえば、仏道修行こそ、最高の生命の充実を与えてくれる。仮に、はじめはイヤイヤでも、行動したあとは、他では味わえない、深いさわやかさと歓喜がある。
 また家族の幸せへの根本の貢献でもある。自身も成長し、他の人にも尽くしていける。社会への最大の奉仕でもある。時とともに永遠に輝く思い出を刻むことができる。その他、あらゆる価値と福徳が集まっているのが、妙法の世界のありがたさである。その世界に徹して生き抜く時、すべてが生かされ、全く無駄むだはない。
 ともあれ貴重な休日を、広布への尊き現実の行動に費(つい)やしておられる皆さま方を、私は最大にたたえたい。いな、御本仏の称賛は絶対であることを深く確信していただきたい。
 また、いつも陰で真剣に支えてくださっている創価班、城会、白グループ、白樺グループ、ドクター部、金城会、転輪会の皆さまをはじめ、すべての役員の方々に、心より感謝し、あらためて御礼を申し上げたい。
 さて私が、初めてこの千葉・かしわの地を訪れたのは、昭和四十三年の二月五日。茨城の友、五千人との記念撮影の帰途であった。ちょうど本年で二十周年になる。
 その折は、以前の柏会館に立ち寄った。今思えば本当に小さな会館で、突然の訪問であったため、集まっている人もいない。がらんとした会館で、一人さびしく、管理者さんに中を案内していただいた。二階から眺(なが)めた手賀沼の美しい光景は、今なお、まぶたに焼きついている。
 指導者は、自分のために、わざわざ人を集めたり、大勢の人の前で立派なことを指導してみせたりするのが本務ではない。むしろ誰も知らない陰の陰で、人々のために心をくだき、身を粉にしてこそ本物の指導者といえる。
 どうすれば会員の皆さまに、心から喜んでいただけるか。希望をもって信心に励み、誰よりも幸福になっていただけるか。そのために、今、自分に何ができるか。私には、その懸命な一念と行動しかなかった。また、これが戸田先生の心でもあった。
 どんなにいばってみたところで、人間は人間である。人間以上のものになれるわけがない。とすれば人間として偉大であること以外に、真実の偉さはない。地位や立場の上下など仮の姿に過ぎない。それで幸不幸が決まるわけでもない。
 その、人間としての偉大さの究極が「仏」であり、「仏界」の生命である。それを目指しての正しい仏道修行のためにリーダーがいる。そのリーダーが、傲慢(ごうまん)であったり、自分中心であったり、自己の完成に努力していなかったとしたら、これほどの転倒もない。
 二十年前の訪問の折も、私は会館の御本尊に、ただただ柏の皆さまの、いよいよの幸の人生を真剣に祈念した。私が願主となっている、この御本尊は現在、柏文化会館に御安置されており、ただ今、皆さまとともに、私は万感の思いで拝し奉った。
 この柏は、悪侶たちの凶暴きょうぼうな嵐に苦しみ抜いた地である。皆さまの言語に絶する辛苦しんくと悔しさ、涙と奮闘を私は誰よりも知っている。私は今朝けさも、柏の友に「永遠の福徳あれ」「無量無辺の功徳よ薫れ」と祈った。祈らざるを得ない。皆さま方こそ、この地にあって、御本仏の仰せのままに、迫害に耐えながら、大法を弘通してこられた尊き仏子だからである。他の誰が、この難事を実践しているのか。皆さま方をおいてない。
 その御本仏の仏子をいじめ、苦しめた者の罪が、どれほど深く大きいか。しかも、こともあろうに、それが信徒を慈愛で守るべき聖職者の振る舞いであるにいたっては、言語道断といわざるを得ない。「法師の皮を著たる畜生なり」と大聖人の厳しきお叱(しか)りをこうむることは間違いないと確信する。
3  ともあれ私は戦った。大切な皆さま方のために。広布のために。大聖人の正法正義のために。
 かわいい子供が暴漢に襲われているのを、黙って見ているとしたら、こんな卑怯ひきょうな父親はない。大事な仏子を追いつめ、正法広布の組織を破壊しようとするやからを見て、怒りをもって断固、立ち上がらなければ、もはや仏法の指導者ではない。
 平穏の時は、さも信心強盛に見せかけ、嵐の時には、小さく首をすくめて、口をつぐんでしまうような、意気地のない人間は、もはや誰も信用しないであろう。
 これからも私は、″邪悪″と″傲慢″とは、どこまでも戦う。何ものも恐れない。仏法の正しさを確信しているからだ。策にも威嚇いかくにも微動だにすることはない。反対に″正義″と″誠実″には、どこまでも真心で応えていくというのが私の信念である。

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