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日蓮大聖人・池田大作

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第1回東村山圏総会 「おごりたかぶるな、大衆から離れるな」

1988.4.10 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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1  尊い仏子につくすリーダーたれ
 東村山は現在、東京の「広布模範」の地の一つとして、最も理想的な前進の姿を示している圏である。
 多くの区・圏があるなかで、東村山は、いわば先頭集団を走る″トップランナー″の圏の一つといってよい。何事であれ″トップ″を走ることは至難であり、それゆえに尊い。私は、この素晴らしき実証を見事に示された皆さま方に、心から敬意を表したい。当初、この会合には出席する予定ではなかったが、こうした思いから、本日の出席となったことを、まず、ご了解願いたい。
 ところで、東村山市内には、中世、鎌倉街道の宿場として栄えた久米川宿くめがわじゅくがあった。ここは、交通の要地であるとともに、関東の戦略的な要衝ようしょうでもあり、たびたび、重要な合戦の舞台となった。
 なかでも、元弘三年(一三三三年)五月十二日、有名な「久米川合戦」があった。日蓮大聖人の御入滅から五十一年後のことである。北条家は、その直後の五月二十二日に滅亡しており、幕府の終焉しゅうえんを決定づけた歴史的な戦いであった。
2  さて、私は、この総会に先立って、中国・北京大学の張学書副学長一行と会談した。その折にも話題となったが、このほど中国の第四代首相(国務院総理)に李鵬りほう氏が就任された。氏は、昨年北京で開催された「核の脅威展」の開幕式にも出席されている。
 李鵬首相は十一歳で「革命烈士」(新中国建設のため活躍し、その途上にった人々)の遺児となり、故・周恩来総理・鄧穎超とうえいちょう女史夫妻に引き取られた。十七歳で中国共産党に入党し、その後、モスクワに留学。帰国後は、各地の発電所など、いわば最前線の現場での経験を踏み、技術にも明るい政治家としての歩みを刻んできている。
 氏の経歴を見るにつけても、優れた指導者は様々な体験を経て、人間的にも力量的にも成長を遂げているものだ。また、そうした経験なくしては、立派なリーダーに育つことはできない。学会においても、経験浅く、未熟でありながら、偉くなったと錯覚し、結局、退転していった幹部がいるが、とくに若い幹部は、深く銘記すべきことであろう。
 私が昨年、女史に贈った詩「えにしの桜」が、先日「人民日報」に掲載された。こうしたことを通し、日中の友好が深められていくことを本当にうれしく思う。私は故・周総理とは逝去せいきょの前年にお会いし、また女史とも幾度も歓談している。お二人とも、私にとっては心と心の通う、かけがえのない人生の先輩の方々である。
 その女史が、李鵬氏の副首相就任にあたって「おごりたかぶるな、大衆から離れるな」と忠告したのは、有名なエピソードである。
 一流の人物なればこそいいえる一言であるが、「おごりたかぶるな」「おごりたかぶった人間はいらない」とは、戸田先生の遺言でもあった。
 どこまでも謙虚に、尊い仏子の方々に尽くすのが指導者である。にもかかわらず、幹部となり「傲慢」になった人間は、いつしか退転し、自分勝手な行動で大勢に迷惑をかける――戸田先生はそれを鋭く見通されていた。
 ″おごり″や″慢心″は、退転への道である。ゆえに、いつしか心にしのび寄る″おごり″″慢心″を、厳に戒めねばならない。信心の世界には″傲慢の人″は必要ないし、絶対にいさせてはならないと、強く申し上げておきたい。
 もし、そのような幹部がいれば、我々がいなくなった後、彼らは純真な学会員をいじめ、利用し、皆が苦しめられるであろう。それを思うと、先輩である私たちは、厳しく見守り、戦っていかなくてはならない。
3  ″大厄″も福運へと転ずる信心
 私のもとには、会員の方々から、様々な質問が寄せられる。広布の指導者として、大切な質問には、しかるべく答える義務と責任がある。
 日常生活のなかで、どうしたらいいか分からない、何となく答えがあいまいなままの疑問が、誰にもあるものだ。それに対し、仏法の明晰めいせきな視点から、明快に答え、指導していくことが、信心のリーダーの責務ではなかろうか。
 先日、私のもとに、「厄年やくどし」について、仏法ではどう説いているのか、また仏法者として、どのように考えていくべきかとの質問があった。そこで、きょうは、その点について、少々、論じておきたい。
 「厄年」というものが本当にあるのか、ないのか。本来、それは、ドクター部の方々に聞くのが″スジ″かもしれない。しかし、ドクターの先生方も、一見、怖そうな方が多く、多忙なようでもあり、なかなかたずねにくいという声もある。
 災いを招きやすいとされる厄年が何歳であるかという点については、様々な説がある。一般に、男性は四十二歳、女性は三十三歳とされることが多い。御書には五十七歳の説もあげられている。
 こうした説の背景には、四十二には「死に」、三十三は「さんざん」といった語呂あわせの意味合いもあるようで、とすれば、五十七は大方、「御難」ということになろうか。ともあれ、こうした語呂あわせが、とるに足らない俗説であることは、いうまでもない。
 ただ医学者のなかには、厄年を、成人病などの危険性のうえから、注意すべき年代として積極的にとらえ直している人もいる。
 また、一般的にも、身体や人生の変わり目、節目として、自戒すべき年齢であるとする見方が、少なくないようだ。

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