Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第3回本部幹部会 広布支える婦人部を大切に

1988.4.1 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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1  人の「心」つかめるリーダーに
 本日、本部幹部会にご参集の皆さまはもちろん、この模様が伝えられる各地の婦人部の集いに参加された皆さま方に対し、「本当にご苦労さまです」と申し上げたい。日夜、広宣流布のために励んでくださっている大切な婦人部の皆さまに、私は心からの敬意を表する。また、何より日蓮大聖人の絶大なご称賛は間違いないと確信する。
 先日、中部を訪問した際、ある人が言っていた。
 「″尾張おわり名古屋は城でもつ″と言いますが、創価学会は″婦人部でもつ″ではないでしょうか」
 壮年部、青年部の皆さまには気の毒だが、どうも衆目しゅうもくの一致するところ、これは否定できない真実らしい。
 壮年部は「地域の柱」ということに一応なっているが、見ていてハラハラするような、あぶなっかしい柱もあるという、もっぱらの評判だ。末法は多くのものが転倒する時代だから、婦人部が「学会の柱」で、壮年・青年はその揺るぎない柱に支えられている現実も、いたしかたないかもしれない。
 それならそれで、男性はあまり、いばったり、気どったり、格好かっこうつけたりしないほうが、正しいと思うが、婦人部の皆さん、いかがでしょうか。
2  ともあれ婦人部は、まじめである。一生懸命である。信心強盛ごうじょうである。けなげであるし、いざという時も、男性より、よっぽどハラがすわっている。純粋であるし、真剣である。
 そうした婦人部を大切にしてあげていただきたい。また尊敬するのが当然であると私は思う。法のために奮闘する婦人部の皆さまを、いじめたり、苦しめたり、感情的にしかったり、見くだしたりすることは、大いなる誤りであると明言しておきたい。
 また、婦人部は、ある意味で、信じやすく、ごまかしやすい面もある。それだけに、ごまかされたと知った時の怒りと執念しゅうねんは、尽未来際じんみらいさいまで消えないほど、大変なものである。妥協だきょうがない。
 そうした意味から、策と要領、見えと学会利用の幹部は、婦人部の皆さまの広布への純粋な祈りによって、いつしか去らざるをえなくなっている。事実、これまでの退転者等は、学会の清らかな信心の世界に、みにくい生命が耐えられず、いられなくなったのが、その本質である。
3  先ほど秋谷会長が″桜花おうか爛漫らんまんの春、四月を迎えて″と言われた。会長には申しわけないが、ご存じのように、寒い日が続いて、桜の花はまだ爛漫とはいえない。
 ところで、ちょうど今朝けさ、近所のあるご婦人からレンギョウの花をいただいた。その方は、昨年、創価大学の入学式に招待を受けて行った。大学の門を入ると、たくさんのレンギョウの花が咲いて、道ぞいにずっと続いていた。その鮮やかさは、今でも忘れることができない。その、せめてもの御礼として、ということのようであった。
 江戸城を開いた太田道潅どうかんがもらった山吹やまぶきの一枝には″実の(みの)ひとつだになきぞ悲しき″の心が込められていた。それはどうでもよいが、このご婦人の真心に触れて、一度私はレンギョウについて申し上げなければと思った。
 ――時には、こういう話もよろしいでしょうか。けさの聖教新聞の一面に「歓喜と確信と安心を」とあった。その通りの実践を、私も行わなければならない。皆さまが、少しでも心なごみ、ほっとするお話をしていきたいと願っている。
 ともあれ形式的、教条きょうじょう主義的、観念的ないき方では、人の「心」はつかめない。真剣に求めている人を、がっかりさせ、かえって、離れさせてしまう場合さえある。小さなことのようだが、その小事に、惰性だせいと甘えの一念という重大な課題がひそんでいる。指導者のそうした一念は、一事が万事で、広布の全分野に影響を及ぼす。
 苦しむのは、婦人部をはじめ、最も真剣に戦っている人々である。また、その人たちが忍耐強いことをよいことにして、リーダーが自分の惰性に気づかない。成長しない――この悪循環じゅんかんを、断ち切っていかなければならない。その時はじめて、学会は、これまで以上の″本物の力″を発揮できるにちがいない。

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