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日蓮大聖人・池田大作

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兵庫広布35周年記念幹部会 広布の″要″の地を盤石に

1988.3.26 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

前後
1  常勝関西の歴史支えた尼崎
 遠いところ、また、ご繁多のところ、わざわざご参集され、本当にご苦労さまと申し上げたい。
 今回、私は、尼崎に来る予定ではなかった。が、ぜひとも尼崎の皆さまとお会いし、久方ぶりに語り合い、これまでの御礼を種々申し上げたいとの思いがつのり、昨日、予定を一日繰り上げ白浜から帰阪した。きょう、このように念願が実り、私は本当にうれしい。
 七年前の三月、会長勇退の約二年後であるが、私は尼崎文化会館を訪れ、記念大会に出席した。だが、内外の情勢から、思うようにお話もできず、十分に皆さまを激励することもできなかった。それが私には、長い間、大きな心の悔いともなってきた。きょうはつぐないの意味も込め、前回を補って余りあるようにゆっくり、たっぷりと、お話しさせていただきたい。
 ある人が言っていた。「東京が学会の″顔″とすれば、関西は″心臓部″である。と同じく、神戸が兵庫の″顔″とすれば、尼崎は″心臓部″となる」と。
 私も同感である。尼崎は、「広宣流布の電源地」であり、関西の、忘れえぬ″広布源流″の地である。尼崎の躍動と前進があったからこそ、兵庫、そして全関西の発展と勝利があった。その意味から、壮大な人材山脈を築き、関西広布の崩れざる軌道を作りあげた尼崎の歴史は、まさに輝ける「栄光」の足跡であった。このことを、私は明快に申し上げたい。
 また、この間の、皆さま方の命を削るようなご健闘、ご活躍に対し、私は最大の賛辞をおくりたい。
2  ところで「尼崎」の地名は、何に由来するのか。
 尼崎市役所発行の「尼崎市史」によれば、平安時代には「長洲浜ながすはま」と呼ばれていた。その後、「一ノ洲」「河尻かわじり」など、様々な名称が表れるが、鎌倉時代の中期、日蓮大聖人御在世の建治から弘安年間には、″あまがさき″と読める「海人崎」「海崎」との記述が、文献に見える。これを「尼崎」の起源とする説もあるが、はっきりしたことは分かっていないようだ。
3  中国地方など西国から大阪へ入るさいの″入り口″に当たる尼崎は、歴史的にも通商・交通の要地であった。
 この地の重要性に注目した一人に、徳川家康がいる。それについて「尼崎市史」にもくわしく叙述されている。
 開幕かいばく後、尼崎は幕府の直轄領であったが、大阪城の攻撃に先立ち、家康は、姫路藩主の池田利隆に、わざわざ尼崎城の支援・防御を命じている。尼崎は、いわば大阪の″のどもと″であり、西国との物資の交流を束ねる、きわめて重要な位置にあった。大阪城の攻略にも、決定的な影響力をもっていた。
 両軍とも、戦闘を始めるに当たり、兵糧米の備蓄に全力をあげた。その点で、尼崎は堺と並ぶ重要な集積の要地であり、大阪方も、この点は十分に認識し、手を打っていた。それだけに幕府としても、ここを大阪方に奪われては一大事と、万全の守りを固めたのである。
 家康は、諸国の大名に出陣を命じ、陸海両面から大阪城を包囲する。それとともに、経済的にも大阪を封鎖し、いわゆる″兵糧攻め″を図った。
 まず、京都から大阪への米や塩の流出を禁止。ついで、北陸など北国の産物が入らないよう、淀川を通る船を徹底して取り締まった。また、大阪方に従っていた小豆島から、塩、たきぎ、魚類などを大阪に運ばせず、幕府支配下の尼崎、堺に回送させた。その直後には、すべての船に、大阪の港への出入りを禁じている。
 こうして家康は、物資流入のあらゆる経路を次々とふさいだ。この作戦は、かなりの効果をあげたようだ。大阪では一時、米の値段が平時の六倍以上にハネ上がっている。大阪方に与えた、あらゆる意味での圧迫感は、相当のものであったにちがいない。

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