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第2回全国青年部幹部会 ″本物の人生″を青年らしく

1988.3.12 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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1  「真実」を求めたドストエフスキー
 本日は3・16「広宣流布記念の日」三十周年という深き意義をこめた第二回青年部幹部会である。盛大な開催を心から祝福申し上げるとともに、諸君の「健康」と「長寿」そして、いよいよの「活躍」を念願してやまない。
 きょうは婦人部の代表も祝福のため参加されているが、会合に集う諸君の様子を見ての、こんな声を聞いた。「学会本部の前が、みな凛々しい若い人であふれて、頼もしい限りです。素晴らしい姿であるし、本当にうれしいですね」と。私も全く同感であると申し上げておきたい。
 本日はロシアの文豪であるドストエフスキーについて、少々お話ししておきたい。
 ドストエフスキー(一八二一―八一年)の生涯、それは苦難に次ぐ苦難の連続だった。逆境と苦悩のうち続く人生であった。しかし彼は決して屈しなかった。それどころか常に、苦難が大きければ大きいほど、それを自己のかけがえない財産へと転化していった。
 彼が代表作の一つである「罪と罰」を執筆したのも、最悪ともいうべき状況のさなかであった。創作に当たったのは一八六五年から翌年にかけてである。
 その前年の一八六四年四月に彼は妻マリヤを肺病で亡くしている。続いて、その三カ月後には兄ミハイルが亡くなる。ミハイルは、ドストエフスキーが常に胸中の苦しみや悩み、そして喜びも打ち明けてきた、深ききずなの人であった。兄の死が与えた精神的な打撃は大きかった。
 その上、兄とともに始めた雑誌「世紀」に関する多額の負債(ふさい)が、彼の双肩(そうけん)に、のしかかってきた。彼は、兄の家族の生活まで全部、面倒をみようとした。そして雑誌を軌道に乗せるために不眠不休で働いた。
 しかし借金は増える一方である。一八六五年には、ついに雑誌は廃刊のやむなきに至った──。その無念さは、想像するだに痛ましい。しかも、自身も病気がちであった。
 妻と兄をうしなった孤独のなか、経済的にも、肉体的にも、彼は苦しみ疲れていた。しかし、近代文学中の傑作である「罪と罰」は、このドン底のなかからこそ生まれてきたのである。
 苦難なき人生など、ありえない。大いなる苦難なくして、大いなる人生もない。順調だけの歩みで、後世にのこる不滅の事業を成し遂げた人は、一人もいない。
 偉大なる仕事をなす人には、人一倍、大きな苦悩があり労苦がある。それは避けられない人生の鉄則である。
 ゆえに必要なのは、逆境をも財産と変えていける不屈の魂である。そして、何があろうとも、自ら決めた使命の場で、″本物″を徹底して追求しゆく揺るぎなき信念である。
 ドストエフスキーは、えに苦しみながら、『罪と罰』を書き続けていった。この頃、彼は知人あての手紙に「現在のところでは、私の唯一の希望です」と書いている。
 もちろん生活のかてとしての意味もあったにちがいない。しかし、何より彼には、この小説が人類にとって価値ある作品であるとの自信があった。どうしても自分が書き上げなければならないという自負があった。その確信と使命感があったからこそ、創作は逆境の闇を照らす「唯一の希望」──精神的支柱となったのにちがいない。
 誰しも、人生を導く希望の光が必要である。何らかの支柱を持たずして、困難な人生を生きぬくことは難しい。
 様々な希望があり、支柱がある。その中で、私どもは信仰という無限の″希望″の源泉を知った。三世にわたって壊れない生命の金の″柱″を持った。
 「私には信仰がある。ゆえに希望がある」──この、いのちの底からの叫びにこそ、人生を限りなく切り開いていく魂の光がある。
2  一八六五年の十一月末。小説はもう、ほとんど出来上がっていた。一日も早く出版者に原稿を渡さなければならない。時間的にも、経済的な意味でも、余裕は全くなかった。
 にもかかわらず、彼は何と、書き上げた原稿を、ぜんぶ火に投じて灰にしてしまった。そしてまた新たに書き始めた──。
 「ぼく自身、どうしても気に入らなくなったのです。新しい形式、新しいプランが、ぼくをきつけてしまったのです。そこで改めて、初めからやり直しました」
 彼は旧友への手紙にこう書いている。
 この、どこまでも″本物″を追求してやまない、信念に徹した姿に、私は彼の偉大さを見る。容易にできることではない。この一点を見ても、彼はまさしく″本物の作家″であったと思う。
 名聞も名利も、真実の前にははかない。人に″どう見えるか″ではない。自分が″どうあるか″である。かりに他人はごまかせたとしても、自分はごまかせない。自分自身が納得できない生き方をして、本物の人生を送れるはずがない。
 ドストエフスキーは、インチキはいやだと思った。誰に何と言われようと、たとえ損な生き方のようでも、芸術家としての良心に生きた。芸術こそ、彼の自ら決めた「使命の天地」だったからである。その時、彼の眼中には名利も名聞も消え去っていた。
 本日は芸術部の代表の方々も参加されているが、芸術はもちろんのこととして、人生万般にわたる真実を示唆してくれるエピソードであると思う。
 皆さま方は、それぞれの「使命の天地」で、どこまでも″本物″をきわめゆく″本物の人生″であっていただきたい。
3  ドストエフスキーは、このように、ぎりぎりの苦しみのなかにあって、毅然きぜんとして進んだ。自らの中に、自らの勇気で、日々新たに希望と喜びを見いだしながら、『罪と罰』を一行また一行、一枚また一枚と執筆していった。
 「罪」そして「罰」──生命の本質の課題であり、また社会の不条理とも深くかかわる難問でもある。
 「罪」とは何か? 「罰」とは何か? 人は人を裁く権利を誰ら与えられたというのか? 「力」こそ正義ではないのか? それとも「正義」は他に存在するのか? そのような現世の「力」を超えた正義が存在するなら、人はなぜこんなにも不幸なのか? 人は生まれながらにして宿命づけられた存在なのだろうか?
 彼は根本の課題から目をそらさない。真っ向から取り組み、苦しみながら、自らの心血を、ふりしぼるようにして、不朽ふきゅうの思想を書きのこしていった。売らんかなのみの作家等とは、余りにも違う、尊き姿である。
 彼の労苦の結晶は、一八六六年一月から十二月にかけて、雑誌『ロシア報知』に連載された。この年、彼は四十五歳。発表と同時に、読書界に一大センセーションを巻き起こした。連載中、どこにいっても、この小説は人々の話題の中心であった。そればかりでなく、ヨーロッパ中に好評の旋風せんぷうは広がっていった。
 日本には一八九二年(明治二十五年)、作家・翻訳家で文芸評論家の内田魯庵ろあんによって、英訳から部分訳されたのが、最初の紹介である。以来、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした彼の作品の中でも、最も広く読まれてきている。
 戸田先生は、よく私ども青年に「偉大な世界的小説を読め。徹底して勉強せよ」と厳しく指導された。「御書の拝読は当然として、その上で、人類の偉大な思想的遺産は、みな仏法に通じ、仏法を証明しゆくかてとなる」とも言われていた。
 内容のない低俗な雑誌ばかり読んでいるとすれば、「青年として、あまりにもなさけない」と、嘆かれた。その先生の慨嘆の姿は今もって忘れることができない。
 今は時代も違って、何かとせわしなく、余裕がないかもしれない。また必ずしも古典を勉強しなくてもすむ時代かもしれない。さらには、社会そのものが、″本物″を大切にしない退廃的傾向を増しつつあるといってよい。
 そういう意味では、青年がまっすぐに本格的に成長していくのが困難な時代であるという側面もある。しかし、だからといって、時流に流されては何にもならない。
 また創価学会は、広布のため、人類のために、何としても″本物の人材″を、″一流の人物″を育てあげる以外にない。
 当然、人それぞれの生き方がある。多様性を大事にしなければならない。誰もがのこらず『ドストエフスキー全集』を読破しなければならないとは、絶対に言わない。
 しかし、私は戸田先生の指導通り、懸命に勉強した。それが、今すべて血肉となっている。本当に、ありがたいと思っている。
 その体験の上からも、諸君は、自分自身のために、それぞれの立場で、それぞれの工夫によって、これだけは負けないという徹底した本物の実力を養い、蓄えてほしいと私は期待する。

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