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日蓮大聖人・池田大作

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第2回本部幹部会 信心の「心」は富士のごとく

1988.3.4 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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1  ″歴史の地″富士宮
 全国各地から代表が集い合っての本部幹部会である。遠いところ、寒いところ、本当にご苦労さま、と申し上げたい。
 きょう、この広宣会館にお集まりの皆さまは、各地、各方面のリーダーの方々であり、どちらかといえば″話をする″ほうの人である。あまり″話を聞く″方々ではない。
 しかし、ある意味で、人の話に耳を傾ける姿勢に、その人の「人格」が表れるといってよい。私も多くの人の姿を見てきたが、話を熱心に聞こうとする人、ふとした一言を胸中に刻み、大切にしている人は、心温かな深き境涯の人である。反対に、人の話を受け入れる余裕のない狭量きょうりょうの人は、往々にして人間性も浅はかであり、やはり成長が止まっている人である。真心の言葉も、いかに大事な話も、すべて硬い心のカラで、はね返してしまうからだ。
 各地の会員の依怙依託えこえたくである皆さま方は、どうか、心広々とした″聞き上手″の指導者であっていただきたい。
2  先日、こんな話を聞いた。入信を控えたある婦人が、総本山が静岡県の富士宮市にあると聞いて、先輩の婦人部に「富士宮とは、どんな所ですか」とたずねた。その婦人部は、「富士山が見える」とか、「白糸の滝がある」とか、答えたらしい。だが、それでは実感がわかないし、「何とかもっと教えてほしい」と懇願した。聞かれた方は、一瞬、困ったが、さすがに賢明な婦人部である。″富士宮は重要な地域だから、池田先生に手紙を出せば、きっと話してくれるわ″と考えついた。このご婦人は、まことに知恵のある立派な方と称賛したい。
 ゆえに、きょうは富士宮を中心とした話を少々させていただきたい。私が入信した当時の、今から三十〜四十年前に、富士宮の方々からうかがった話なので、間違い、記憶ちがいもあるかもしれないが、ご了承願いたい。
 「富士宮」の名は、全国浅間(せんげん)神社の総本社である富士山本宮浅間神社の所在地であることに由来する。「富士の宮(神社)」の意である。もともとは「大宮おおみや」と呼ばれていた。
 御書にも「当時はくわんのう勧農と申し大宮づくりと申しかたがた民のいとまなし、御心ざし・ふかければ法もあらわれ候にや」と仰せである。
 ――今は農繁の時であり、また大宮づくりもあって、民の忙しい時である。御志が深いので前代未聞の法もあらわれているのであろう――と。
 駿河に住んでいた西山入道に与えられた「宝軽法重事」の一節だが、この「大宮づくり」とは、富士宮の浅間神社の社殿造りのことである。この御文で大聖人は、農繁期と大宮造営とが重なった繁忙はんぼうの間も、求道の心を忘れなかった西山入道の「志」をたたえられている。そこで、深き信心に立つ西山殿には、末法の偉大な法がくっきりとあらわれていることだろうと、御抄を結ばれているのである。
3  昭和十七年六月一日に市制がしかれた富士宮は、現在、人口約十二万人。広大な富士の裾野(すその)に抱かれた自然豊かな景勝地である。実は、源頼朝や、織田信長、徳川家康らともゆかり深い″歴史の地″でもある。
 天正十年(一五八二年)、甲州・武田氏を平定した凱旋がいせんの将・信長は、帰路を駿河にとった。富士の裾野に出た信長は、白糸の滝を見た後、大宮(現・富士宮)に入った。そこに陣中見舞に訪れたのが、家康である。のちに天下人となる両雄が、ここに相まみえた――。まさに、歴史のロマンの天地である。
 「白糸の滝」は、その名にふさわしく、いかにも叙情的じょじょうてきで、女性的な美観を見せてくれる。源頼朝は、この名瀑めいばくに感嘆し、「の上に いかなる姫が おわすらむ をだまき流す 白糸の滝」とうたったという。
 私の恩師・戸田先生も、昭和二十七年、大石寺で「白糸の 滝にも似たる 君なれば やさしく強く 清らかにぞある」とんでいる。
 美しき「白糸」のながめは、いつの世も、見る者の詩心を豊かに潤してくれるのだろうか。

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