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日蓮大聖人・池田大作

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第11回富士宮圏幹部会 学会は正しき信仰の「善知識」

1988.3.1 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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1  御在世の門下の誉れの後継を
 富士宮圏幹部会も、きょうで第十一回となり、広布開拓への毎月の″節″として、重要な伝統を刻んでいると伺った。この間の、地域広布の発展と向上も目ざましいと聞いており、本当にうれしく思う。心から祝福申し上げたい。どうかこれからも、大いなる繁栄と前進へ見事な歴史を築いていただきたい。
 また、明後年の大石寺開創七百年の記念行事も、日一日と近づいている。そのさいに、最もお世話になるのは、ここにいらっしゃる富士宮の皆さま方である。その点も、くれぐれも、よろしくお願い申し上げたい。
2  いうまでもなく、ここ富士宮は、大御本尊まします有縁の天地である。そこできょうは、日蓮大聖人御在世当時の、富士・富士宮地域の様子について、少々語っておきたい。地元に住む皆さま方のほうがよくご存じかと思うが、全世界の友にも伝えていく意義から、御書を拝しつつ述べさせていただく。
 この周辺には、御在世当時から、数多くの弟子・信徒が住んでいた。
 富士宮近辺では、まず上野郷に、大石寺を寄進した南条時光が、地頭として居を構えていた。その場所は、現在、妙蓮寺となっている。
 また重須おもすには、地頭の石河入道がおり、妻は時光の姉であった。さらに、南の河合には、日興上人の外祖父に当たる由比入道が、西山には西山入道が、それぞれ住んでいた。
 一方、富士周辺には、賀島かじまに高橋入道と、その妻・持妙尼じみょうあまが住んでいたほか、大聖人ゆかりの地として、一切経を閲覧えつらんされた岩本・実相寺、また幼少期、日興上人が修学された四十九院、さらに熱原の法難で有名な熱原郷も、この地域にある。
 また、大聖人門下に対する大弾圧の張本人・行智が院主代を務めた滝泉寺りゅうせんじも、この地にあった。今日では、日達上人が、この周辺であろうと定められた地に竜泉寺が建立されており、熱原三烈士の殉教を讃え、法難の意義をとどめている。
 この竜泉寺での熱原法難称嘆法要(昭和四十七年九月)には、私も参列したことが今も懐かしい。
 なお、一度は門下となりながら、後に憶病にも退転し、仏罰を受けた大田次郎兵衛、長崎次郎兵衛も、賀島かじまの付近の人と考えられる。この大田次郎兵衛は、大田親昌と同一人物とされる。
3  この地方は、のちに熱原の法難が起きたことでもわかるとおり、弘教が進み、信徒が増える一方で、大聖人に敵対する勢力も根強く、数々の迫害を繰り返した地域であった。そのせいか、とりわけ大聖人は、この地に住む門下のことを気づかわれ、人一倍、温かく激励されている。
 駿河の住人・三沢小次郎は、現在の富士郡芝川町あたりに住んでいたと考えられるが、この人に与えられた御消息に、次のような一節がある。
 「本より我一人いかにもなるべし・我いかにしなるとも心に退転なくして仏になるならば・とのばら殿原をば導きたてまつらむとやくそく約束申して候いき
 ――もとより、私一人はどうなってもよい。が、私がどんなことになっても、心に退転することなく仏になるならば、あなたがたをお導きしよう、と約束した――と。
 大聖人の御生涯は、まさに身命にも及ぶ大難の連続であられた。むろん、それもすべて経文に予言されていた通りのことであり、末法の法華経の行者であられるがゆえの必然の御姿であった。
 が、大聖人は、そうした大難の渦中にあって、″私一人はどうなってもよい。ただ、あなた方だけは、どこまでも救ってあげたい″と仰せになっている。海のように深く、大きな慈愛の御言葉であり、三沢殿をはじめ、駿河の人々への限りない愛情の御心が、しみじみと拝される御文である。

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