Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第1回各部代表者会 「心こそ大切なれ」を銘記

1988.2.25 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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1  増上慢は不幸の因をつくる
 本日を第一回の各部代表者会として、二十一世紀へ新たなスタートを切っていただきたい。毎月、秋谷会長を中心に集い、異体同心の絆をさらに強めつつ、一回一回を次の大発展への意義あるステップとしてほしい。
 昨日、ある人と語りあった。御書全編を通しての大聖人の仰せは、つまるところ何だろうかと。その一つの結論として、まず「御本尊根本」ということである。日寛上人も仰せのごとく、妙法のみを純粋に唱え行じきっていくという「但南無妙法蓮華経」の一念である。
 そして「ただ心こそ大切なれ」の御聖訓である。これらが、もっとも要となるともいえるのではないかということになった。
 とくに後者については、たとえ御本尊を受持し、題目を唱えていても、自身がいかなる信心の「心」であるのか。広布へと向かう「心」なのかどうか。その奥底の「心」が一切を決める。
 幸・不幸、成仏・不成仏、また仏界の方向へ行くのか、苦悩の境涯へ向かうのか。すべては、わが一心の妙用であり、厳しき結果である。この一事は、どれほど強調しても、しすぎることはない。
2  宇宙にも心法すなわち「心」がある。自身にも「心」がある。自身の信心の「心」が、宇宙にも通じていく。まことに心には不可思議なる働きがある。
 わがままな心、愚痴と文句の心、疑いの心、要領主義の心、慢心、増上慢の心などは、自他ともの不幸の因である。
 それらにとらわれてしまっては、飛行機が濃霧の中をさまようようなものである。何ひとつ定かには見えない。善悪の基準もわからなくなる。自身のみならず、乗客ともいうべき眷属も不幸に堕としてしまう。
 また「慢」の心とは、たとえていえば、暴れ馬が止まらないで狂ったかのように、心がグルグルと駆けまわっていて、自分で自分がわからなくなっているようなものだ。そばにいる人たちも、けとばされてしまう。要するに、人間として正常ではない。また、自分が思っているのとは正反対に、少しも偉くはない。それどころか、慢心とか増上慢の人は、仏法上、いちばん危険な人物である。
 反対に、友を思う真心、主義主張に生きる信念の心、広布への使命を果たそうと戦う責任の心、仏子を守り、尽くしきっていこうという心、感謝と報恩と歓喜の心は、自身のみならず、一家も一族も、子孫末代まで、無限に福徳を開いていく。諸天善神が守りに守っていく。まっすぐに成仏への軌道を進めてくれる。ゆえに「心こそ大切なれ」との仰せを、強く深く胸に刻んでの一生であっていただきたい。
3  一切は変化していく。何ひとつ変化の連続でないものはない。社会も、自身も、家庭も、毎日毎日、毎秒毎秒、変化に次ぐ変化である。
 組織や職場等における立場も当然、変化していく。将来の発展のための人事異動もある。何事も変化が自然なのである。それを一時的な自身の都合や好きいで判断するのはエゴの心である。また、変化にあたって、愚痴や文句に陥ったり、いたずらに不安にとらわれるのも、妙法をたもった人の正しき姿とはいえない。
 すべての変化のなかで、妙法のみ「常住」の法である。その力は、一切をよりよき方向へ、人生の勝利と価値の方向へと向けていく。
 私どもは久遠の使命に生きゆく広布の勇者である。信仰の勇者である。いかなる変化に出あおうとも、それが自分自身にとって″最高の変化である″と確信し、勇んで一歩成長への好機としていっていただきたい。また、そうできるのが信心であり、その人が本当の人生の勝利者となれる。
 どうか広宣流布という究極の目的観に立ち、三世永遠の生命観に立って、すべてを悠々と見おろしながら、すがすがしい出発をお願いしたい。

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