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日蓮大聖人・池田大作

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第十一章 青年に託す日伯友好の未来  

「太陽と大地開拓の曲」児玉良一(池田大作全集第61巻)

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1  未来性あふれる国
 池田 今までさまざまなブラジル移住の記録等、私も拝見してきましたが、このように直接、歴史の証言者である児玉さんからお話をうかがうことができ、たいへんに感銘を深くしております。最後まで、ざっくばらんに楽しく語らいを続けられればと思います。
 児玉 こちらこそ、本当に何から何までお世話になってしまって……。
 池田 いえいえ、児玉さんはじめブラジル移住者の方々の八十年の歩みは、日本にとって大切な歴史です。
 児玉 そうおっしゃられても困ります。ただ、八十年間いろいろありましたけど、私は、本当にブラジルが好きなんです。
 池田 よくわかります。
 児玉 今度生まれてくるとしたら、どこの国に生まれたいかって、日本の方に聞かれるんですがね。私としては、やっぱりブラジルですね。(笑い)
 池田 いいですね。ヨーロッパの有名な作家で、お国に移り住んで、お国が、どんなにすばらしい国かをたたえた人がいますよ。
 児玉 そのような方がねえ。
 池田 シュテファン・ツヴァイク(一八八一年―一九四二年)という作家です。私も好きで読みました。
 彼はブラジルのことを、「ここでは人はまだ平和に生きることができそうだった」「ここでは土地が測り知られぬ充実をもって未来を待ち受けていた」(『昨日の世界Ⅱ』原田義人訳、みすず書房)と言っております。
 児玉 なるほど。いつごろですか。
 池田 第一次世界大戦が終わり、なお、新たな戦争(第二次大戦)へと向かいつつあったころです。
 児玉 ああ、いちばんねえ、私らもいろいろあった時期ですよねえ。
 池田 彼は平和のために書き、語り、行動した人でした。
 そのためにナチス・ドイツに追われ、故国オーストリアから脱出せざるをえなかった。その彼が求めた安息の地が、ブラジルのリオデジャネイロだったのです。
 児玉 昔は首都だったところですからね。
 池田 彼は、遺書にこう書いています。「このすばらしい国、ブラジルに、心からの御礼を申しあげたいとおもう。日一日といやますおもいで、私はこの国を愛するようになった」(同前)――。
 私も、ツヴァイクの言わんとしたことがわかる気がします。それほどブラジルという国には、人間らしさ、大らかさがある。
 児玉 私らは最初から、来てよかったなあと思ったですよ。(笑い)
 池田 ブラジルは、なかなかまとまりにくいようで(笑い)、でも不思議と一体感があり(笑い)、人間が人間らしく生きようとしている国ですね。
 その意味では、児玉さんをはじめ日伯友好の先駆の方々の歴史も、「平和」と「協調」と「未来性」をもったブラジル独自の文化土壌の上に築かれたという気がしてなりません。ブラジルのような国土からは、二十一世紀のすばらしいリーダーが数多く生まれると確信します。
 ところで、日本人の移住者が、ブラジルのなかで果たした最も大きな役割は何だと思いますか。
 児玉 いちばん大きかったのは、ブラジルの農業を開発・発展させたことかね。日本移民は、今のブラジルの農業に貢献したと思います。
 池田 コーヒーはブラジルが原産地と思われているくらいです。ある資料には、百十万人を超える日系人のなかで、農業に従事しているのは十三万人ぐらいだとありました。
 そして、この人々の所有する土地は六百五十万ヘクタール以上もあって、それは、日本の耕地全体の一・五倍の広さにあたる、と。
 農業にたずさわる日系の方々は、広大な土地を相手に、どれほど奮闘されていることか。どこの国にあっても「土に生きる」農業従事者の方々は、国と大地の「守り手」です。
 土で思い出しましたが、ブラジルの国花は「イペー」という花だそうですね。私は子どものころから桜の花が大好きなんです。児玉さんはどんな花がお好きですか。
 児玉 花は何でも好きです。いま住んでいる家は、庭が狭いので花は植えていません。家庭用に野菜を少し育てています。
 池田 今までの人生で、児玉さんがいちばん誇りに思われることは何ですか。
 児玉 私のいちばんの誇りは、やっぱり、子どもや孫が立派に成長して、他人に迷惑をかけないでブラジル社会で働いていることです。皆、安定した生活を送っています。
 池田 ご長男のハウーさんもここにおいでですが、お子さんたちをはじめ二世・三世、後継の世代の方々について、ふだん言いにくいことで、何か注文はありますか。(笑い)
 児玉 何と言っていいか、わかりませんね。(笑い)
 でも、二世・三世の人たちは、両親の期待に応えて、立派な模範を社会に示しています。これからも勉強に励んで、ブラジルの将来を担っていってほしいですね。
 それから、日本人のいいところを子どもたちに伝えてもらいたいことです。日本人の子孫である誇りを失わないでいてほしい。
 池田 たくさんのお子さんやお孫さんに囲まれて、こうしてお元気で日本にも旅行されて、すばらしい勝利の証です。
 児玉 まあ、勝利といっても、形として残っているのは住宅と、それから現在もっている会社だけで。これは自分のお小遣いにもなっていますけれど。子どもたちのおかげで、なんとか心配なく暮らしています。
 もっと財産をまとめようと思っていたのですが(笑い)、努力が足りなかったのでしょう。
2  日本の人々との交流
 池田 日本では洪水とか台風などの天災がありますが、ブラジルで、何か出あったことはありますか。
 児玉 いえ、そういう天災はありませんね。
 私が日本に帰った時、鹿児島のお医者さんにかかったことがねぇ。よくは覚えていませんが、耳のことだったでしょうか。その帰り、私の兄弟の家に行くのに、汽車で一時間ばかりかかる。ちょうどその日に、大風が吹いて、駅なんかだれ一人おらん、台風で。
 池田 もうみんな先に避難しちゃった。(笑い)
 児玉 それで、私一人になってそこにいて。そしたら、バスも汽車も、一時間かかるところを二時間かかった。
 池田 ブラジルは大雨が降りますよね。だから児玉さんは落ち着いていた。(笑い)
 児玉 でも、ありませんよ、日本みたいのは(笑い)。ブラジルは台風もないし、地震もない。火山も聞いたことがない。
 池田 地震がないというのは、いいですね。ブラジルは人もいいし、国土もいい。
 児玉 戦争もあまりなかったんじゃないんですか。
 池田 そうそう、ブラジルは過去に、ほとんど戦争がなかったそうですね。平和を愛する国民性は、その歴史の上に培われたのではないでしょうか。
 今、九州のお話が出ましたが、日本のどこを訪問されましたか。
 児玉 広島、京都。それから鹿児島、宮崎、福岡、熊本、長崎。見て歩くといろいろわかりますからね。あと、東京、静岡、大阪。大阪には妹がおります。島根にも参りました。
 池田 その時の印象はどうでしたか。
 児玉 日本とブラジルは近くなったと思いますね。だからぜんぜん知らない方でも、快く楽しく会って、言葉を交わすことができて。
 八十年ぶりに自分らの故郷に初めて帰ったように皆さんに喜んでいただいて。私としても本当にありがたい。皆さんの気持ちも知ってね。
 池田 ブラジルから見て、今の日本、新しい日本をどう思われますか。
 児玉 今の日本はやはり、ずいぶん発達してまして、それにはびっくりしました。治安もいいし。
 日本に来た時、空港の人に頼んで荷物を行き先の駅に送ってもらったんですよ。ところが、駅に着いたらカバンが一つ着いてない。ブラジルだったら荷物を預けたりしませんから、心配してね。大騒ぎしましたけど、航空会社に調べてもらったら、空港の荷物預かり所にしまってあった。
 そのカバンは甥から借りたもので、じつは、私が空港に置き忘れてた(爆笑)。こういうことがとまどいますね。(笑い)
 池田 それは心配でしたね。
 では、日本とブラジルの文化的な違いについてはどう思われますか。
 児玉 勉強とか文化では、ブラジルと比較すると、日本のほうが進んでいるというか、それでずいぶん役に立ったんじゃないですか。
 池田 そうですか。じつは、いろいろと他にも児玉さんに聞いてほしいと頼まれたことがありまして(笑い)、いくつかうかがってもよろしいですか。
 児玉 それはそれは、どうぞどうぞ。
 池田 初恋はいつですか(笑い)。ブラジルに行ってからですね。
 児玉 もちろん、ブラジルに来てからです。十五、六歳ごろでしたかね。(笑い)
 池田 長い人生を振り返って、子どもにとって父親と母親では、どちらの存在が大きいとお考えですか。
 児玉 両方とも大事だと思います。
 時と場合によって、父のほうが大事だとか、母親の存在が必要だとか言えますけど、二人の存在があって子どもは健全に育っていくのではないですか。
 池田 家庭での父親の役割について、どうお考えですか。
 児玉 男は、お金を稼がないと何の役にも立ちません(笑い)。それで、自分の所帯と社会のために成長して働くことですかね。
 池田 わかります。児玉さんも私も父親ですから。(笑い)
 仏典にも「男は柱のごとし」、「男は羽のごとし」(御書一三二〇㌻。趣意)等のたとえがあります。一家の「柱」として、また社会への「羽」として責任は大きいですよね。
 ところで、最近も読書はされていますか。何を読みますか。
 児玉 新聞を読むようにしてますけど、字が小さいので、苦労しています。拡大レンズを使って読むようにしています。
 池田 九十三歳まで生きてこられて、いつも自分で努力しようとなさっていたことはありますか。
 児玉 その努力がまだ足りないんです。(爆笑)
 池田 いや、すばらしい答えです。その一言に児玉さんの信条と人生のすべてが含まれている気がします。
3  青年へのメッセージ
 池田 さて、先駆者といえば、ブラジルの“奴隷解放の父”として有名な作家ジョアキム・ナブコ(一八四九年―一九一〇年)を思い出します。日本移住八十周年の一九八八年は、ちょうど奴隷解放百年にも当たると聞いてます。
 児玉 奴隷はひどかったらしいですよ。私らも聞いたことがあります。
 池田 ナブコは学生時代、自由主義・人道主義の高まりに強く心を動かされ、奴隷制廃止運動に参加しました。卒業後、若くして政治の世界に進み、武力によらず、人道的・合法的な方法での完全な奴隷制の撤廃をめざそうとしました。
 反奴隷制協会を創ったのが三十一歳でした。二度目の選挙では、奴隷解放を唱える立場が災いして落選する。しかしその後も論文を書いて出版したり、詩人やジャーナリストらを巻き込んで街頭運動を起こして、若き情熱と知性の力で人々の力を結集しました。
 そうした人々の努力が結晶して、ついに一八八八年、奴隷解放令が議会を通り、公布される。これによって自由になった黒人は七十五万人とも言われています。
 児玉 ブラジルには、いろんな国の人がたくさんいます。ポルトガルやらイタリアやら……。私ら日本人も、最初はめずらしがられたけれど、よくしてもらいました。
 池田 ナブコをはじめとする青年や、多くの人々が、自由を求めて戦いました。多民族国家ブラジルは、先人たちの解放の戦いによって勝ちとられた国と言えるかもしれません。
 ブラジルSGIの中心者も、アメリカの南北戦争と違い、ブラジルでは、一滴の血も流さずに奴隷解放を成し遂げた、これは、特筆すべきことだと語っておりました。
 最後に、人生の先輩として、日本の青年たちに、何か一言、メッセージをいただければ。
 児玉 ちょっと、わかりませんね(笑い)。私は学のないほうですから、いい言葉がね。学校の勉強も小学校五年までです。そのころからブラジルに来て、それで着くまでは楽しかったんですがね。働く段になったら、仕事は辛いし、言葉はできないし、勉強どころじゃなかった。もっと世間の人たちと交わっていれば、学べたかもしれませんが。
 池田 青春時代、ブラジルの母なる大地の“学校”で学ばれた児玉さんです。
 人生のこと、日伯友好の将来のことなど、たくさんうかがってきましたが、どのお話も「生きること」と「学ぶこと」が一体になった尊い語り部です。
 児玉 いやいや、ありがたく思います。
 でも、もともとブラジルのことを知っていたわけでもないし。ただ、見よう見まねで、失敗しては考え、夢中でやってきましたよね。ですから、くよくよしないで、前向きに生きていこうってことでしょうね、私から言えるのは。
 池田 仏典に、「心が弱ければ、多くの能力も役に立たない」(御書一二二〇㌻。趣意)とあります。現実の人生には、勇気ある強い心がいかに大切か。
 児玉 それと、あとは、やはり日本の人たちに感謝したいです。これまでの日本の発展があったから、私らもブラジルで生活することができた。
 だから、これからも若い人たちに日本の将来をお願いしたいし、またブラジルのような国にも来ていただいて、今以上に発展させてほしいですね。
 池田 よくわかりました。ありがとうございます。いろいろ、面倒な質問もしましたが、お許しください。すばらしい「人生哲学」を学ばせていただきました。
 どうかこれからも、日伯友好の“黄金の柱”として、ブラジルの大地とともに、永遠なる「開拓の詩」を綴り、残していってください。
 長時間、本当にありがとうございました。
 児玉 こちらこそ、いろいろな話をしてくださって、うれしかったです。

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