Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第九章 心と心結ぶ文化の道を求めて  

「太陽と大地開拓の曲」児玉良一(池田大作全集第61巻)

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1  世界一古い大陸?
 池田 ブラジルに児玉さんが渡られたのは、一九〇八年(明治四十一年)。ちょうどその年に一人のイギリス人探検家が、ブラジルの奥地マットグロッソを探検したという話があります。
 児玉 マットグロッソ州ですか。私も運送の仕事をしていた時に、その方面に出向きましたが、まあ、遠いところですよね。途中、何カ所かにガソリンを置いといて、そこで給油しながら、やっと家に帰り着けるからね。
 池田 当時、ヨーロッパの学者のなかに、ブラジルについてこんな説を立てる人がいたようです。
 ――地球には初め、現在とはまったく違う地形の大陸があった。それがある時、今のブラジルの一部にあたるところを残して沈んでしまった。それから長い年月が経ち、残った陸地がふくらんだりしながら、今の南米大陸になった。だから、ブラジルの奥地には世界でいちばん古い大陸の一部が残っている。そして、過去の文献やインディオの伝説からすれば、きっとそこに古い都の遺跡があるはずだと。
 児玉 はあー。私ら、そういう話は初めて聞きますが。
 池田 当時、ブラジルにさまざまな夢とロマンを描いた人がいた。結局、その探検家は十数年後、マットグロッソのジャングルで行方不明になってしまったのですが。この広い大地に、児玉さんは少年の日、勇敢な第一歩を踏み出しました。
 児玉 大きくなってから、よくも、ブラジルへ来たと自分で感心しましたけど、最初はそういうわけでもない。当時、私としては、何と言うんでしょうね
 。ぜんぜん距離なんか問題じゃなかったし、また、知りもせず、ただどこか変わったところへ行きたいというのがねえ。
 池田 新天地で六人のお子さんと九人のお孫さんに囲まれて、今もかくしゃくとされている。また立派に後継の大樹を育てられた。
 とくにご長男のハウーさんのことはSGIのブラジルの中心者からも、よくうかがっております。
 児玉 ありがとうございます。池田先生が初めてブラジルに来られたのは……。
 池田 ほぼ三十年前になります。一九六〇年(昭和三十五年)の十月十八日です。その時、訪問したのはアメリカ、カナダ、そしてブラジルの三カ国でした。初めての旅で、何かと不慣れなことばかりでした。今は何から何まで便利になりましたが。
 児玉 今とは違いますしね。もちろん飛行機で来られた?
 池田 ええ、ニューヨークを発ったのは午前十時。夜半にブラジリアに着きました。そこでプロペラ機に乗り換えて、サンパウロに着いたのは十九日の午前一時ごろでした。深夜の空港に数十人の方々がわざわざ出迎えてくださった。
 あの時の光景は忘れられませんね。一人一人にお礼を申し上げて翌日の再会を約し、早く帰って休んでいただくようにお願いしました。
 児玉 そうでしたか。
 池田 じつを言うと、アメリカの各地を回るうちに体調を崩しまして。時差という感覚もあまりなかったし。で、ニューヨークを発つ前に、みんなが「熱が四〇度近くもあるのだから、ここで安静にしていてください」って心配するし。
 しかし、待ってくれている人たちがいる。私はどうしてもブラジルに行きたかった。当時は、生活もたいへんな人が多かった。日本に来ることなど、とても考えられる状況ではなかったですからね。
 私がうれしいのは、その方々が今、立派な家庭を築きあげ、見事に活躍されている。何回も日本に来られるような境涯になっていることです。
 児玉 すばらしいことですね。あと、ブラジルにはいつ……。
 池田 一九六六年(昭和四十一年)と一九八四年(昭和五十九年)です。日系の皆さんは、お会いするたびに、ブラジル社会にしっかりと根を張り、信頼を勝ち得ている。たいへんなことです。種を播き、根を張ることがどれほどむずかしいか。できてしまえば当たり前のようにみえるが、そんな簡単なことではありません。
 そういえば、一九六〇年の初訪問は、ブラジリアが首都になって間もないときでした。ブラジリアはたしかに二十世紀に出現した都市という感じがしますね。児玉さんは行かれましたか。
 児玉 たしか、三回ほど行ってますね。最初は、移住五十年祭が終わって五年くらい経った時でしたが、沖縄県の関係の人でサンパウロ市の市会議員が大統領に提案してくれてね。その議員が「日本から来て五十年も帰っていない人もいるし、そういう人たちにブラジリアを見せてやりたい」って。あの時分の大統領の名前は忘れましたけど。(笑い)
 そうしたらば、大統領は「いやあ、そんじゃ見せてやってくれ」って(笑い)、さっそく招待してくださって。小さなバス三、四台に四十人余りだったですよね。たいへんな歓迎でね。大統領はリオに出張されて不在だったけど、奥さんの案内でさっそく、大統領官邸や外務省、上院の会議場なんかを見せてくれました。上院下院二つあるけど、その一つを見せて、どちらも同じなんだからと言われてね(笑い)。食事も兵士の休息所でさせてもらった。それで三日三晩ですか、四日おったんですよ、ブラジリアに。皆、大喜びでしたよ。
 池田 日系人に対する信頼の深さを物語るエピソードですね。
2  「会うのが始まり」
 池田 ところで、児玉さん、お父さんはおいくつで亡くなられたんですか。
 児玉 九十一歳です。ブラジルへ渡って以来、初めて私が日本へ行ったのが一九四六年(昭和二十一年)。たしかその翌年ですね。こっちに訃報が届いたのが遅かった。
 池田 でもご長寿でしたね。お母さんは。
 児玉 お母さんのことはよく覚えていませんね。亡くなったのは私の家内の翌年です。私が家を出て移住してから四十年くらいが経っていました。
 池田 日本で再会した時が最後になったわけですね。なにしろ明治時代に行って、昭和に里がえりした。でも三十八年ぶりに親孝行ができましたね。
 児玉 その時の気持ちは言葉に出せないほどでした。お父さんはその時、目が悪くなっていました。私を見分けられたかどうか、わからないくらいでしたね。
 池田 どんな言葉を交わされたんですか。
 児玉 お父さんは私に「会うのが始まりだ」ということを言いました。私はよく返事しなかったけれども、うれしいやら、でもお父さんの目がよく見えないことを思うと、まあ、寂しいような思いをしました。
 池田 万感迫る一言です。本当は跡を継いでほしかった。しかし、長男は家にいないとずっと決めてきた。お父さんは児玉さんを最大に理解し守ってくださったんでしょうね。
 十三歳からずっと遠く離れても、児玉さんはお父さんに似たんじゃないでしょうか。そんな気が私はしますが。
 児玉 私は、日本というと広島のことがまっ先に思い浮かびますね。自分の故郷ですからね。
 池田 子どものころ過ごされた日本と、第二の故郷ブラジルでは、自然環境もずいぶん違うと思いますが。たとえば日本には四季がありますけど、ブラジルでは季節の変化はどうですか。
 児玉 まあ、春になりますと木の葉が青くなって、それで秋になると、ちょいと色がついたり。そのかわり、ほんのちょっとですがねえ、日本みたいにはっきりとしてないですから。
 今日暑くても、明日になったらもう寒くてね。夏でも寒い日もありましたね。ブラジルでは季節ということがわからん。(笑い)
 まあ、ただ月から言ってね……。日本と反対になるんですよね。それで作物ができあがったら秋だったんですね(笑い)。そのくらいの違いですよ。
 池田 そうですか。児玉さんは、日本の春夏秋冬では、どの季節がいちばん、好きですか。
 児玉 私は春がいちばん好きです。
 池田 理由は?
 児玉 とにかくすべてが新しくなるから。子どもの時から変わった場所を見るのが好きだったし、「ああ、きれいなところだな」「変わった木がある」とかね。そういうものが目につきました。
 池田 仏典にも、「春の初めの喜びは、木に花が咲くごとく、山に草が萌え出ずるごとくである」(御書一五八五㌻。趣意)などと表現されています。たしかに不思議なリズムですよね。
 それにしても、新しいものが好き――児玉さんらしいですね。
 児玉 ちょっと出ていけば、この町はたいそう寂しいと思われるところでも、私としては新しいところを見られるということでね。まあそういう感じだったと思いますよ。
 そのころは遠くに行くときは草鞋を履いてましたよね。お父さんから、草履やら草鞋やら、まあいろんなものを作れといわれてね、晩に作ったり。冬になると、馬にも草鞋を履かしとったからねえ。(笑い)
 池田 もう今ではめずらしいですからね。
 児玉 ブラジルでは暖かいですから、そういうことはない。当時は裸足が普通だったですね。土になじんでいるというか――。
 まあ、東北のバイア州とかペルナンブコ州では、日本のと違った草履を履いていましたけど。ブラジルの草履は幅が広くてね。面白い格好なんですよ。
3  陽気な国民性
 池田 日本とブラジルでは人々の性格はだいぶ違うと思われますか。
 児玉 ブラジル人はたいへんに陽気な性格です。「どんなに生活が苦しくても、いつかよくなる」という希望は必ず持ってます。それが陽気さになって表れているんじゃないでしょうか。
 池田 象徴的な点ですね。ブラジル人の陽気さと言えば、なんといってもリオのカーニバルです。あの華やかな一大絵巻を、だれもが一度は見たいと言いますね。
 児玉 私はリオじゃなくて、サンパウロのカーニバルを高いところから見たことがあります。飾り立てた山車を馬が引いて、それに女の人が乗ってね。今と違って小規模で、山車も二台くらい。大部分が歩いてパレードしてましたね。
 池田 児玉さんは、サンバを踊ったことは。(笑い)
 児玉 それが、いつでしたか、ちょっと踊ったことがあります。(笑い)
 池田 さすがですね。それでは、「日本人でよかった」と思ったことはありますか。
 児玉 それはよかったですよ。最初はめずらしくてジロジロ見られましたけど、ブラジルの中に日本の一つの歴史ができたんですから。それとブラジルに日本のいいところを認識させたということかね。
 池田 「ブラジルの中に日本の一つの歴史ができた」――たいへんなことです。いずこの天地にあっても、そこで新しい「歴史」を刻み残した人は、勝利者です。
 さて最近、日本ではお年寄りの「生き甲斐」が問題になっています。ブラジルではどうですか。
 児玉 ブラジルではそういうものはないと思います。どちらかというと豊かな国の問題じゃないですか。ここではまだ生活がたいへんですから、お年寄りも健康であれば何かの形で頑張っています。
 池田 ブラジルの日系人に、何か残しておきたい伝統・習慣は。
 児玉 とくにありませんけど、ブラジルはまだたいへんな国ですから、その発展に貢献し、子どもの教育に力を入れていただきたいと思います。
 池田 ブラジルは魅力的で奥深い国ですが、今後さらにどのように発展していくと思いますか。
 児玉 ブラジル人は陽気で大らかです。けれど、もっと勤勉になって、仕事をすることが必要でしょうね。この点では日本人を見習わなくてはなりません。
 また政治家とかはその模範を示して、国民にいい影響をあたえなければいけない。
 池田 それは日本も同じです。(笑い)
 児玉 日本は、真剣で真面目な国だと思います。日本の男性は勤勉で、よく仕事をすることでブラジル人のなかでも有名です。
 「どうしてそんなに仕事をしなくちゃいけないのか」(笑い)とよく言われます。
 それに女性もよく働きますし、親切です。ブラジルでは女性を尊敬します。日本の女性はとくに尊敬されます。
 でも、日本の会社に勤めることを嫌がる人もいます。あまりにも多く仕事をさせられて、給料が安いからです。
 池田 二世の人たちからは、“日本の会社では、仕事上の権限をあたえられる機会が少なくて、張りあいや楽しみがない”という不満の声も多いと聞きました。
 人生に対する考え方の違いというか、そういう点を見直していくことは、今後の日本人が心すべき大きなポイントです。
 児玉 日本は狭い国で、人口が多いし、一人一人が一生懸命努力しなければいけないのではないですか。そうすると、まわりの人に、いちいち気をつかう余裕もなくなってきますよね。ブラジルは何もかも大きいし、競争も激しくないから大らかになるんでしょう。
 池田 一つ一つ丁寧に答えてくださり、申し訳ありません。
 児玉 いえ、いえ、大丈夫ですから。
 池田 では、児玉さんが日本語でいちばん好きな言葉は何ですか。
 児玉 「ありがとう」が好きですね。
 池田 勤勉・誠実、そして感謝――。児玉さんの人生のなかに、日本人の忘れかけている大切な「心」が生きているように思えてなりません。
 児玉 いやいや。でも、最近の若い日本の人たちを見てると、“ブラジルにいる日本人のほうが日本人らしいな”(笑い)と感じることもありますよね。
 池田 今、ブラジル人の一人として日本の人々に要望はありますか。また、ブラジルの人々に対して何か望まれることは。
 児玉 むずかしいことはよくわからんですが、日本には、ブラジルのことをもっと信頼してもらいたいですね。
 また、ブラジルはこれからは、もっと自分たちの力で国をよくしていかねば。
 池田 鋭いご意見です。では、もう一つ、日本人が外国の人と交流するとき、こうしたほうがいいと思うことはありますか。
 児玉 日本人は無口ですね。いらないことはあまりしゃべらない(笑い)。まあ、私みたいなもんじゃ。(大笑い)
 でも、恥をかいてもどんどん話をするのは大事なことです。私らもブラジルに来たら、とにかく言葉を覚えないと食えないから必死で話しました。
 池田 私も青年たちに“語学は度胸”とよくアドバイスするんですよ。

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