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日蓮大聖人・池田大作

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第七章 庶民の“灯台”として  

「太陽と大地開拓の曲」児玉良一(池田大作全集第61巻)

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1  わが子の自立へ
 池田 お子さんの教育について、児玉さんが心がけていらした点はありますか。
 児玉 そうですね。やはり、ちゃんと学校を出してあげたいと思いました。“しつけ”といっても特別なことはありませんけど、とにかく早く自立できるように望みました。
 私は朝早く仕事に出て、夜遅かったから、いつも子どもは寝ている。(笑い)
 子どもも自然に仕事の大切さを感じてか、よく手伝ってくれました。
 池田 「子は親の鏡」「子は親の背をみて育つ」とよくいいますが、子どもは、見ていないようでも、ちゃんと見てますからね。
 お子さんたちとの会話はポルトガル語ですか。日本語は教えましたか。
 児玉 学校では日本語を教えませんでしたから、私が教えようと思ったんです。でも私自身も言葉にたいへん困った経験があったし、子どもには早くポルトガル語を覚えてもらわんといけなかった。仕事の手伝いもあるし、どうしてもポルトガル語ばかり教えてしまいますよね。
 私も悪かったのは、家に帰っても日本語を使わなかったんです。
 娘の一人は三年ほど日本語学校に行かせましたが、そこでは読み書きしか教えず、話し言葉は教えてくれないんです。だから全然話せないし、読み書きも今では忘れてしまった。
 日本語も、日本の習慣も、子どもたちにはあまりなじみがなかった。だから、日系移民の子どもたちにいじめられたり、長男のハウーなどは、よくケンカして帰ってきてましたね。
 池田 どこのご家庭も、日本語教育には苦労されたとうかがっています。でも児玉さんご自身が、十三歳のときブラジルに一人で来られましたし、お子さんも早く自立されたんではないでしょうか。
 児玉 私らのときは“十二歳で一人前”という考え方でした。いろいろでしょうけど、十代後半ぐらいからは大人ではないかと思います。
 池田 いや、その年代は大人より、よっぽど鋭い。(笑い)
 今、お孫さんは何人……。
 児玉 初孫は二男の息子でした。孫は全部で九人です。そのうち一人は大学を出て、今は医者として働いています。
 池田 笠戸丸の一粒種が二世、三世と広がり、皆さん立派に成長されている。さらに、はるか未来のご家族の方々が、みずからのルーツ(根)である児玉さんたちの人生を、どれほど誇らしく語りついでいくことか。それを思うと日本の私たちの心も躍ります。
 児玉 ありがとうございます。
 池田 お孫さんの姿に、昔の子どもと違うなと感じられることはありますか。(笑い)
 児玉 私の実家はそうでもなかったけど、昔はもっとしつけが厳しかったんじゃないですか。子どもは親を尊敬していたし、親が怖かった(笑い)。でも今の子どもたちは、両親や先生とも仲よくなって、伸び伸びしてますね。
 七人のうち真ん中の子が、生後一年ほどで亡くなってしまってね。あの時は本当に悲しかったんです。子どもは私たち夫婦の宝ですから。
 池田 そうでしたか。じつは私も二男を病気で亡くしました。そのお気持ちはよくわかります。
 児玉 そうですか……。
 池田 私の恩師も、若き日に女のお子さんを亡くしましてね。当時のことを思い出して、「私は本当に悲しかった。一晩、わが子の冷たい遺骸を抱いて寝て、泣いた」と語っていました。しかし、恩師は、「私は今世でその子に会っているような気がする」とも言われていました。
 児玉 親子というのは、そういうものかもしれんですね。
 池田 児玉さんがお元気で、ご家族の方々と幸せに暮らされる姿は、亡くなられたお子さん、そして奥さまも、きっと喜んでおられるにちがいありません。
 また、陸続と続くブラジルの日系人の青少年たちも、皆、いわば児玉さんの子であり、孫であり、曾孫です。
 児玉 ありがとうございます。心にしみます。
2  ゲートボールが趣味
 池田 ところで、今、何か趣味をお持ちですか。
 児玉 そうですね。これまではほとんどなかったですが、一年半くらい前からゲートボールを始めました。
 池田 九十代になられてからですか。本当にお元気ですね。
 児玉 皆から誘われましてね。もう年が年だから、あまり効果がないと思っていたら、やってみると体が自由に動くし、姿勢もよくなる。食事もおいしく食べられます。それ以来、好きになったんです。一回に二時間ぐらいですかね。少々、具合が悪くても、これをやると治ってしまう。(笑い)
 池田 朝ですか。
 児玉 ええ、息子が朝五時ごろに起きて、六時のバスに乗って仕事に行く。私も一緒に起きて、公園に行って練習するんです。すると、皆は七時半ごろ見えて、「ああ児玉さん早いですね」と。(笑い)
 移住八十年祭の時に大きな試合があったんですよ。私も出たくてね。でも、まだ始めたばかりでよくわからなかったもんだから、皆より少しでも多く練習しようと。とにかく一生懸命だったですよ。(笑い)
 池田 いつも、そんなに早くから。
 児玉 普段はもう少し遅いですね。若いころでも、夜は遅くとも十二時前後には家に帰って、十分に休んでました。それで朝は六時か七時に起きる。
 ゲートボールの練習のある日は別です。前の晩は十時には寝るんです(笑い)。大会をめざして頑張ったんですが、結局、立って順番を待つのが辛くて失礼したんです。(笑い)
 池田 たいしたもんです。自分で自分を上手に操縦して、しゃきっとしておられる。「老い」とか「若さ」は、年齢ではないですね。年齢が若くても、希望のない人生は味気ない。どこまでも希望を持ち続けた人が偉大です。児玉さんはいわば“青春の九十代”(笑い)。こうやって、一緒にお話ししているだけで楽しい。
 児玉 いやいや、もったいないことです。
 池田 そこで、読者の方も長寿の秘訣をもう少し知りたいだろうと思いますので(笑い)。今もよく歩かれるそうですが。
 児玉 ええ、よく歩くように心がけてはいます。でも、涼しいときだけね。暑いときは歩かない。くたびれるから(笑い)。ひざも痛くなるしね。私には寒いぐらいのほうがいいんです。暑いときは早めに起きます。
 池田 やはり、五時か六時に。
 児玉 そうです。早めに出かけて、暑くなって疲れたら少し休む。五分か十分くらい。そしてまた、てくてくと歩いていく(笑い)。でも、必ず毎日ってわけではないですね。ほかに何かあって忙しいときはやりません。家の中の雑用などがあれば、そちらのほうを先にしてしまう。シャワーの調子が悪いとか、電気の線が不良だとか。(笑い)
 池田 自然体なのが、長続きする理由かもしれませんね。「歩く」というのは、頭の働きもよくするそうですよ(笑い)。それに、家の中の細かいことを進んでやっていらっしゃるようですね。自分の体のリズムをよく知ったうえで続けている。これも長寿の秘訣でしょうか。
 児玉 まあ、長生きしたいと思ってもね。いつまで生きられるかは「自然」に任せるしかない。いつ死ぬか、本当は決まっているんでしょうね。自分が知らないだけで。“その日”が来たら、いくら泣いても、心配していても、頑張っていても死んでいかなくちゃいけない。
 そういうふうに私は信じているんです。若い時からそうでした。だから自分が死んでいくことを、いちいち気に病んだりしないし、ちょっと病気になったときでも、別に心配はしませんでした。
 池田 明治人の気骨を感じます。
 とくに初期の移住者の方々は、右も左もわからない土地で収穫が思うようにいかず、いつ帰国できるかのあてさえなかった。それで、なかには途方に暮れて、自殺する人もあったと伝えられています。
 児玉さんご自身、まだまだ語り尽くせない不安や悲哀があり、絶望感と戦ってこられたことでしょう。どこの国でも、どんな時代でも、人生は戦いです。前に前にと戦い進んでいかねばならない。児玉さんの今のお話は、つねに自分らしく、最善を尽くしていく姿勢から、おのずと培われてきたご心境のような気がします。
 前にもお話ししましたが、私も少年時代から病弱で、三十歳までもつかどうかという体でした。そして恩師戸田城聖先生と出会いました。その十年間にわたる薫陶で刻まれたことが、今の私のすべてです。先生はよく「八十歳まで生きて戦うんだ」と言われていましたが、すべての願業を果たされて亡くなったのは、五十八歳の時でした。不思議にも私はこうして生きてきて、世界中を動くことができる。二十年前には、今の年齢をこのように迎えられるとは思えませんでした。
 児玉 そうでしたか。
 池田 幸いに、妻はそんな私の心境を、よく理解してくれました。
 結婚する前に、話しあったんです。「私は早死にするかもしれないよ」「いいです」。「乞食になるかもしれない」「いいです」。「牢に入るかもしれない」「構いません。決めたんですからついていきます」と。驚きました。(笑い)
 児玉 私は両親や祖父母の反対を押し切ってブラジルにきました。まだ十三歳の子どもでしたので、失うものは何もなかった。
 あったとすれば、親や兄弟や祖父母と、もう少し一緒に生活したかったことですかね。あとはブラジルで得たものばかりです。そのなかでもいちばんの
 思い出は、最初の日本人移民の一人としてやってこれたことですよね。
 池田 一生は限りがあるけれども、歴史は永遠です。日伯友好の歴史とともに、児玉さんの人生も輝いています。
3  働く喜び
 池田 家ではほかに、どんなことをされるんですか。
 児玉 まあ、とにかくできることがあれば、何でもやります。大工のまねもすれば、左官をやったり、鍛冶屋もやってみたり。(笑い)
 池田 やはり、いくつになっても働けるということは、すばらしいことですね。
 児玉 でも、じつを言うと、家にいて修理とか修繕とか、必要に迫られるもんでね。自分でやらなかったら、職人を雇ってしてもらわなくちゃいけない。自分の家ですから、やはりできることは自分でしないとね。(笑い)
 池田 では、働くことに年齢は関係ないと。
 児玉 自分のことを振り返ってみると、とにかく働かないと困ってしまう状況でしたから、年とか関係なかったですね。まあ、体の頑張りがきくのは、三十代から五十代まででしょう。私も運転手の仕事をしてたのが、五十歳代まででしたから。
 池田 人間、働ける時に思うぞんぶん働かなければ悔いを残しますね。これは日本の壮年の人たちにもよく話します。(爆笑)
 運転手のあとは、どんな仕事をされたんですか。
 児玉 そうですね。養鶏をしたりしました。それと、子どもと一緒に住むようになってからは、レンガを作ったりとか。当時、ブラジル人が新しくレンガを作ったという話を聞いたもんで、見にいったんです。それで寸法を測ったりして同じものを作ってみた。われながら立派なものができましたよ。(笑い)
 レンガ作りには、乾燥させる場所が必要なんです。ところによっては野外でもできますが、たいていは大きな蔵ですね。レンガを並べるところの幅が十メートル、奥行きが三十メートルぐらいですかね。
 池田 なるほど。いつも新しい勉強を忘れない。
 児玉 やっぱり、男の生きがいは仕事ですよ。そして仕事に成功すること。人間は、仕事を通して自分の力や価値を発揮するものだと思うんです。
 でも、まあ、何歳まで働けるかとなると、これは本人の意志の問題ですよね。心身ともに健康であれば、年に関係なく働ける。たとえ外で働けないにしても、何もやらないと“ボケ”ちゃいますよ。(笑い)
 池田 たしか、前にお話しした昔の日本の医書にも「身体は少しずつ労働すべし。久しく安坐すべからず」とありました。のんびり座ったままでなく、少しずつでも体を動かしていく――児玉さんは、まさにこのとおりに実践されている。だから体もお元気で精神的にも充実しているんですね。
 高齢者と仕事の問題は、日本の将来にとっても大きな比重を占めるテーマです。高齢の人たちに対して“家のことも気にしないで、のんびりしてほしい”と言うのは、家族として自然な心情かもしれません。しかし、それが極端な場合には“あんまり、うろうろしないで。おとなしくしてて”となってしまう(笑い)。いくら大事にされても、これでは、たまりませんよね
 。(大笑い)
 児玉 私も、年寄りだからと特別扱いされるのはいやですね。(笑い)
 池田 福祉の充実や、高齢者に対する地域・家庭の理解。そして高齢者自身が近隣の人々や家族とかかわりながら、人生に「生きがい」を見いだせる社会を、どのように築いていくか――。私はよく、恩師戸田先生から「使命を果たすことによって幸せになるのだ」ということを教わりました。自分の人生にいかなる「使命」を見つけ、「自覚」し、人生をどう完成させていくかを、皆で考えていくべき時代ではないでしょうか。
 児玉 まったく、そのとおりです。
 池田 その意味から児玉さんたちは、ブラジルに生きるたくさんの若い日系の方々にとっても、「庶民の灯台」ともいうべき存在です。だからこそ、さらにご長寿であっていただきたいという思いでおります。
 児玉 ありがとうございます。

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