Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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第五章 日本人とブラジル人
「太陽と大地開拓の曲」児玉良一(池田大作全集第61巻)
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初めての帰国
池田
児玉さんが、ブラジルから最初に日本に帰られたのは、いつごろですか。
児玉
一九四六年(昭和二十一年)です。何しろ三十八年ぶりでした。
池田
終戦直後ですね。日本はいちばんたいへんな時で、みんな生きていくのに必死でした。それにしても十三歳で渡航した少年が、五十代――。見るもの出会うものが一変していたでしょうし、感慨深い帰国だったでしょうね。
児玉
最初は、月給も安かったし、どうせ帰れないものと諦めていましたよね。
ちょうどそのころ、私は、自分の家を建てようと思っていたんです。日本に帰ろうか、買っておいた宅地を売って自分の家を建てようか。
息子に相談したら「おばあちゃんは亡くなったけれど、おじいちゃんは生きているんだし、日本に帰ってやりなよ」と言われました。私は悩んだんです。
池田
なるほど、なるほど。
児玉
ちょうどその時に二男が来ましてね、「皆(移住者)は、日本に帰りたくても帰れないんだから、お父さん、日本に帰ってやれよ」と。
子どもが口を揃えて帰ってやれ、帰ってやれというもので(笑い)、それにちょうど家も建つ目処がつき、お金もできたので、ようやく里帰りすることになりました。
池田
いいお子さんたちですね。いかがでしたか、故国の土を踏んだ印象は。
児玉
とにかく四十年近く過ぎていましたし、戦争が終わってすぐでしたし……。緊張と、うれしさ、また悲しさで言いようのない気持ちでした。家族との再会も、うれしいけど、妙に緊張してしまって(笑い)……。
それにやはり、なんですね、戦争で荒らされた日本を見ることは、辛く悲しい思いがしました。
でも、これまで四回、日本を訪れました(一九四六、六八、八〇、八八年)が、帰るたびに日本は立派になっていました。
うれしい思いをしましたよね。
池田
それでも、日本に残ろうとは思わなかった。
児玉
ええ、それは一回も思いませんでした。私の心はもうブラジルに住んでいるんですね。これまで八十年間、生活してきたんですから。
池田
「心はもうブラジルに住んでいる」――。いい言葉です。
日本は狭くて人口も多いし(笑い)、これからの日本の青年も心を大きく開いて、どんどん世界を舞台に活躍してほしいと思います。
笠戸丸での第一次ブラジル移住者の方では、児玉さんのほかに中川トミさんと臼井マサヨさんのお二人がご健在ですね。
児玉
そうです。
池田
移住八十年祭で、児玉さんと一緒に万歳三唱をされたのが中川さんでしたか。
児玉
そうです。熊本出身の人で、今はパラナ州にいらっしゃると思います。
池田
中川さんは二歳の時に、両親とお姉さんと一緒に渡伯されたとうかがいました。児玉さんと同じドゥモン耕地に入り、やはりそこを出られて、お父さんは大工の仕事をされ、お母さんは工場で働かれた。その後、ご一家で上塚植民地という日本人の入植地に入られたそうですね。
児玉
そうだったですかね。もう一人の臼井さんのほうは、私と同郷の人です。
池田
広島の。
児玉
はい。今、九十七、八歳くらいですね。ご主人はもう亡くなりましたけど、大きな農地の支配人でね、英語もできて、立派な人でした。
池田
移住者の皆さん方は、顔を合わすと懐かしかったんでしょうね。
児玉
あんまり会えないけど、いい友だちですよね。
2
池田
私のブラジルの友人たちも、大らかでいい人が多いんです。五年ほど前に、サンパウロとブラジリアに行った折にも、たいへんお世話になったことは生涯忘れられません。
お国の国民的詩人アンドラージの「手をとりあって」という詩には、
ぼくはこの目前の社会に溶けこみ
仲間たちをみつめる
憂いながらも
大きな希望を食んでいる仲間たちを。
ともにとてつもない現実を注視する。
現在があまりに巨大だから
ぼくたちは離れまい。
そんなに離れないで
手をとりあっていこう。
(世界現代詩文庫『ラテンアメリカ詩集』田村さと子訳編、土曜美術社)
とあります。
ブラジルの民衆への愛情を謳ったすばらしい詩ですね。皆さんの“心の詩”のようにも私は感じてます。
児玉
何だか恥ずかしい感じですが(笑い)、おたがいに苦労したから、助けあって生きてきましたよね。
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国旗制定百年
池田
一九八九年は、ブラジルの「国旗」が法令で定められてから、ちょうど百周年です。毎年十一月十九日は、祝日になっているそうですが。
児玉
はい。「ディア・デ・バンデイラ」(国旗の日)です。
池田
この旗の中央には天球があって、ブラジルの州(州と連邦都)を表す二十三個の星(=二〇〇二年六月現在は二十七個)がきらめいています。その周りの黄色のひし形は、ブラジルの豊かな鉱物資源を示している。
児玉
“四角は黄金”と聞いたことがありますが。
池田
そう、それで地の緑色は「森林」。真ん中の白帯に書かれているのは、ブラジル国家の理想である「秩序と進歩」。
この輝かしい旗のごとく、ブラジルは二十一世紀に向けて、無限の活力を秘めています。
児玉
ありがとうございます。
池田
話は戻りますが、児玉さんが移住されて約十年。当時、運転の仕事をされながら、車窓から見たサンパウロの街並みはどんな様子でしたか。
児玉
あのころは高い建物もなかったしね。あっても三階か四階ぐらいでした。いちばん最初にできた
大きいのが、二十五階建てのビルでした。お茶の水橋は、もうありました。
それから、サンパウロの市立劇場は、外面だけできていたようです。私も一度入ってみたことがありますが、内装工事の現場監督をしていたのが、やはり笠戸丸で日本から来た方のようでした。私が車の免許をとったころは、あの劇場の前の道路で運転免許の試験があったんです。
池田
たいへんに貴重な証言ですね。街には信号などもありましたか。
児玉
そうですね。ありました(笑い)。で、当時は五〇キロ以上出したら違反で、罰金を払わされた(笑い)。結構な額でしたよ。だから皆“サンパウロとサントスの道路は罰金のお金で造った”なんて言ってた。(笑い)
池田
庶民の“眼”は鋭い。(爆笑)
そうしたかつての街並みを知る児玉さんにとっては、今のすばらしい発展は胸に迫るものがあるでしょうね。
その歴史は、そのまま児玉さんたちの歩みと重なりますからね。
児玉
本当に、今は信じられないくらいです。日本人が勤勉で、その発展に大きく貢献したことは、私にとっても誇りです。やっぱり私が楽しかったのは、仕事ですよね。それと最初に免許をとったこと。(笑い)
池田
そこですね。
私の恩師もよく青年たちに「自分の勤めに、楽しみと研究とを持ち、自分の持ち場をがっちりと守れ」と言っておりました。
信仰といっても、何か特別な人になれとか、特別なことをしろということではありません。賢明になって人生を強く生きぬくためのものです。
児玉
一九一九年になると、私はサンパウロを出て、リベロン市とバレットス市の中間にあるピタンゲーラという町に移りました。そこでイギリス人の家に奉公に入りました。
池田
十年間以上住んだサンパウロの生活を離れて。
児玉
はい。そのころはもう、雇いの運転手がサンパウロに十九人いましたかね。金持ちがヨーロッパに遊びに行って、帰国する時に自動車を買ってきたりしてね。若いのが運転手やってた。結構、みんな日曜日のたびに飲んだり食ったりして、どんちゃん騒ぎをするような仲間の雰囲気でした。
私はこんなことをしていられないというか、無駄なことをしているように思えたんです。それに妻はすでに身ごもっていましたから、サンパウロを出て田舎に行って農業でもやろう――。
そんな気持ちでピタンゲーラに移って、新聞の求人欄で見かけたイギリス人の家の運転手の話に応募しました。
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