Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 ブラジルの“土”に  

「太陽と大地開拓の曲」児玉良一(池田大作全集第61巻)

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1  開拓の労苦をともに
 池田 児玉さんが結婚されたのは、おいくつの時でしたか。
 児玉 二十一歳の時、サンパウロにいたころでしたね。自分では少し早すぎた(笑い)と思ってます。結婚は三十歳くらいでいいと思ってましたから。
 池田 奥さまのお名前は、タカさんでしたね。いろいろな思い出があると思いますが、結婚は、ご自分から、それともどなたかに紹介されて……。
 児玉 自分で決めました。じつは同じ笠戸丸で日本から来ておりましてね。サンパウロに出て家庭奉公していた時、二人とも同じところで働いていたものですから。まあ、見合いとか恋愛とかではなく、ごく自然に連れ添ったという感じですよね。
 池田 やはり同じ広島の方ですか。
 児玉 いえ。鹿児島出身で、年は四つか五つ上でした。
 池田 奥さまも、お一人でブラジルへいらしてたんですか。
 児玉 いや、それが夫と二人で、結婚してから来たんです。
 池田 あれっ。では児玉さんとは再婚。
 児玉 いや、いや(笑い)。夫といっても、名義のうえの、形だけの結婚です。夫婦一組がブラジル行きの条件でしたから。
 池田 ああ、なるほど。やはり「構成家族」をつくって。
 児玉 そう。それでサントスに着いて別れたそうです(爆笑)。名前は忘れましたけど、たしか同じ鹿児島の人と言ってましたっけね。
 あの当時はともかく、みんないろいろな形で来ましたよ。本名を使わず、自分のお兄さんの名前で来たりとか。あとでいろいろと問題になったりもしたようです。
 池田 奥さまは優しい方だったそうですね。
 児玉 まあ、そうですねぇ。(笑い)
 池田 お体は強いほうでしたか。
 児玉 ええ。健康でしたが、日ごろは平気なのに、たまに病気すると、これが大病なもので。私はまったく逆で、若いころちょくちょく病気をしたけど、軽いものばかりで、せいぜいマラリアくらいでしたね。
 池田 奥さまが亡くなったのはもう四十年前……。
 児玉 ええ、そうです。
 池田 ブラジル移住四十周年の記念日を迎える数日前のことだとお聞きしています。ブラジルで労苦を分かちあった、尊いご一生でしたね。やはり奥さまありてこその、児玉さんの人生だったのではないでしょうか。
 児玉 一緒にいるときは、もう生きるのに懸命でろくに気も使ってやれませんでした。今になってみると、本当によくあそこまで頑張ってくれたものだと、感謝しています。
 私も仕事を転々としましたからね。子どもも多くできて、家内は黙々とやってましたけど、たいへんだったと思います。
 池田 まさに夫婦一体ですね。ともに励ましあい、助けあい、人生の荒波を乗り越えてこられた姿が、彷彿とする思いです。
 仏典に「眼の如く面をならべし夫妻」という表現もあります。夫婦は大きく心の眼を開きながら、人生の
 深い目的を二人で見つめていくことが大切ではないでしょうか。きっと児玉さんご夫妻も同じようなお気持ちではなかったかと思います。
 児玉 本当にそうですね。
 池田 それはともかく、晴ればれと移住八十周年を迎えられて、だれよりも喜び、祝福しているのはやはり奥さまでしょうね。
 ここに奥さまが一緒におられたら、どんなにすばらしい笑顔をみせてくださるだろうかと、私は思っていました。
 児玉 もったいないお言葉です。本当にありがとうございます。
 池田 そうそう、それからすばらしい詩を贈ってくださいまして、本当にありがとうございました。あらためてお礼申し上げます。
 児玉 いえいえ。私も筆不精で、長男のハウーに手伝ってもらって書いたんです。せめてもの感謝の気持ちです。
 池田 ポルトガル語の詩で、私の名前の、「DAISAKUIKEDA」の文字を織り込んでいただいて。恐縮の限りでした。
 詩の中で、とくに私どもの運動について
   「私たちに平和と偉大なる生命の
    ハーモニーを奏でる
    大いなる歓びに溢れるうるわしい家族」
 とうたってくださっている。深いご理解、心から感謝申し上げます。
 私のほうこそ児玉さんたちのすばらしい交流の歴史を留められればと思っています。
 児玉 恐縮です。先生は、どうか体に気をつけて、世界の人々のためにますます頑張ってください。
 池田 ありがとうございます。児玉さんがブラジルに踏みとどまろうと決めた一番の理由は何ですか。
2  ブラジルの大地に立って
 児玉 私は両親や親族の反対を押し切ってブラジルに来ましたから、やっぱり男の意地がありました。無一文で帰って、そんなみじめな姿を見られるのが、恥ずかしくてね。長男でしたし。
 笠戸丸の二十五周年の時に式典がありましてね。皆と久しぶりに会った時も、大部分は「早くお金を儲けて日本に帰りたい」と言ってました。その時は私も財産ができれば帰ってもいいかなと思いましたが、まだ三十代でしたからね。踏んぎりがつかなかった。
 池田 なるほど。もう決意は固かった。
 児玉 ええ。私は日本には帰れないものと信じていました。「どうせ帰れんのだから、俺はブラジルの土になる」と決めていました。だから、親から手紙をもらっても、ぜんぜん帰る気にならなかった。とにかく、ブラジルでやるだけやろうという気持ちでしたよね。日が経つうちに、帰るのがだんだんむずかしくもなっていったんです。
 池田 一歩も退けない、ぎりぎりの状況だったわけですね。そのなかで“ブラジルの土に”とハラを決めた。そういう人は強いですよね。
 ところで、ブラジルに到着して三カ月、コーヒー農場を出られてからは。
 児玉 で、私はいったんサンパウロの収容所に戻ったんですよ。収容所の人からは責められましたね。なにしろ六カ月の契約なのに、たった三カ月で出てきちゃったんですから。「契約はまだ残っている」「罰金を払え。払わなかったら日本の親から取るぞ」と。もう泣いてしまいましたね。とにかく、私は仕方なくサンパウロの市内に出ていきました。
 池田 その時はまったく一人で。
 児玉 日本から一緒だった池町さんともすでに別れてますしね。仕事をみつけるといったって、言葉もわかんないからどうしようもない。道ゆく人に自分のお腹を指さして“おなかがすいてる”と訴えたけど、ぜんぜん通じないから、みんなニヤニヤ笑って見ているだけだった。
 困り果てて二、三日、飲まず食わずでいたところに、偶然、町中で矢崎節男さんと再会したんですよ。それで事情を話したら、ブラジル人の家庭に奉公の口があると紹介してくれたんです。うれしかったですねえ。すぐに、そのブラジル人のところへ連れていってくれました。
 池田 それはよかった。どんな家庭でしたか。
 児玉 地主さんです。おじいさんとおばあさんがいて、息子さんは会社勤めをしていましたね。私を気にいってくれて、雇ってくれることになりました。
 とにかくまず言葉が通じないといかんと、さっそくその日から、おばあさんが私の手を引いて台所に連れていき、これがシャカラ(コーヒーカップ)、これがプラット(皿)、あれがコリェール(さじ)とね。(笑い)
 親切に教えてくれましたね。私も一生懸命に、あれは何、これは何と、一つ一つ紙に書いて覚えていったんですよ。
3  池田 家庭奉公というと、どんな仕事をされたんですか。
 児玉 昼間は家事、皿洗いや庭の草取りですね。家のなかのことは何でもやりました。
 夜になると、おじいさんとおばあさんの間にはさまって、買ってきてくれた石板と石筆でもってABCを教わった。こうやって働きながら言葉を学んだんです。
 池田 ほのぼのとした童話のような光景ですね。児玉少年の一生懸命な顔が目に浮かびます。おじいさんとおばあさんの愛情も伝わってくるようです。
 たしか、『昆虫記』で有名なファーブルに、こんなエピソードがありました。
 彼はどういうわけか、子どものころABCの文字を覚えるのが苦手だった。学校でいくら教わっても文字の組み合わせが覚えられない。そこで、ある日お父さんが絵草紙を買ってきてくれた。紙には色とりどりの動物の絵が描いてあって、その動物の名がついていた。ロバとかウシとかカバとか……。それで、ファーブルは動物に見とれながら(笑い)、その名前でABCを覚えていったというんですね。これもお父さんの思いやりの力です。(笑い)
 それにしても、親切な家庭で、児玉さんは真面目で素直な性格だったから、かわいがられたんですね。
 児玉 私は移民のなかでは本当に幸運なほうだったと思いますね。背がちっちゃくて、“鼻たれ小僧”でしたから、家の人も親身になって、本当によくかわいがってくれました。おじいさんの名前を書いてごらん、ってね。マヌエル・アゼベド・スアレスという名でしたが、うまく書けるようになると、「よくできた」と、抱きしめて喜んでくれました。私もうれしくて、うれしくて……。
 池田 いいお話ですね。深く深く児玉さんの胸中に刻まれたご夫妻なんでしょう。遠い異国の一少年を、孫のように大切にはぐくんでくれた。
 今の大人も、もっと美しい心、温かい心で子どもたちをつつんであげたいものです。
 児玉 奉公先の方々のご恩は決して忘れられません。池田先生には何かそういう思い出はありますか。(笑い)
 池田 そうですねえー(笑い)。十二、三歳のころは戦争中でしたからね。四人の兄はみんな戦争へ行き、父も病気でしたから家はたいへんでした。海苔屋の仕事を手伝う以外に、自分で決意して新聞配達も始めました。
 あるアパートに住む若い学者風のご夫婦は、配達する私によく声をかけてくれました。ある時には、夕刊を受け取りながら、「配達が終わったら遊びにいらっしゃい」と家に招いてくれました。
 突然の話でびっくりしましたが、そのお宅にうかがうと、ご夫妻は夕食をごちそうしてくださり、父母のことや病弱な体のことを聞きながら、温かく励ましてくれましてね。「一度ごちそうしようと二人で話しあっていたんだよ」と、小さな私の仕事ぶりをほめてくださったんです。ご主人から「体を大切にするんだよ」「今、君は人間の歴史をつくっているんだ」と励まされ、感激で胸が熱くなったのを憶えています。
 なにぶん戦時中で、少年時代のことでしたから、その後、お礼する機会もなかったのが残念ですが、この思い出は忘れられませんね。
 児玉 それはすばらしいことです。おたがいに小さい時からいろんなことを勉強してきましたね。(笑い)
 それからしばらくして、私のほうは、サンパウロに宅地を買ったりしましてね。
 池田 宅地を。いくつの時ですか。
 児玉 移住して二、三年だから、十五か十六のことだったと思います。
 池田 たいしたもんです。(笑い)
 児玉 当時はとても土地が安くてね。小さな土地ですけど、ほかの年上の人たちと一緒に買ったんです。土地を探し回りましてね。たしか三人くらいでした。
 年上の人が大部分買って、私ら年下の人間はほんの端っこでしたけど。当時、四、五十円の月給をもらってましたから、そのお金で契約しましてね。その後、トゥパンというほかの町にも買ったりしましたが、この時が最初で、のちに四つくらい宅地を持つようになりました。
 池田 今の日本ではうらやましいような話です(大笑い)。奉公はほかにもされたのですか。
 児玉 やがて、サンパウロのバロン・デ・イタペチニンガに二回目の奉公に入りました。ここは女学校の校長さんの家でした。
 毎日、朝八時から夜八時まで、一限交替で生徒さんが勉強に来ていました。
 私はここでは、学校が閉まってから拭き掃除をしたりするのが仕事でしたが、日本人に対して、ブラジルの人々は好意的でしたね。当時はまだ日本人が少なかったので、通りを歩いていても「シネス(中国人)、シネス」と呼ばれていました。
 池田 よいところで働かれたんですね。
 児玉 どちらも、よい家庭でしたね。その後、奉公先を転々としましたけど、変わるたびに月給も上がっていった。(笑い)

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