Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 新天地に夢を馳せて  

「太陽と大地開拓の曲」児玉良一(池田大作全集第61巻)

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1  少年時代の思い出
 池田 五年ほど前(一九八四年二月)、私はブラジリアでフィゲイレド大統領とお会いしました。
 その時、大統領は「ブラジルは日系人にたいへんお世話になっています。日系人というよりブラジル人として私も認識している」と語っておられました。
 児玉 そうですか。ありがとうございます。
 池田 私も日本人の一人として、たいへんにうれしい言葉でした。
 児玉さんたちが乗られた笠戸丸のブラジル行きは、二十世紀初めの出来事でした。この第一歩から八十年間、皆さんは今日まで、日伯の友情の懸け橋となってくださった。今世紀の最後の十年を迎えるにあたり、もう一度その原点を振り返り、若い世代に語り継いでいくことは、大きな価値があると思います。
 その意味からも、何でも自由に語っていただければという気持ちでいます。
 児玉 ありがとうございます。
 池田 そこで、少年時代の思い出についてもう少しお願いします。
 実家ではお酢づくりと農業をされていたとうかがいましたが、兼業農家で、ご両親も毎日毎日、お仕事や家事でたいへんだったでしょう。家ではどんな手伝いをしましたか。
 児玉 あの当時はなんですね、畑で使う牛や馬の餌になる草を刈って、牧場でそれをみんな細かく切るんです。そういうことも、ちょっとやってました。お酢づくりのほうは、どうしても私に合わないので(笑い)、手伝ってません。
 ある時、弟と一緒に農作業に出たんですが、弟がいたずら者でね。誤って私の人さし指の先を切ってしまったんです。たいへんだと言うんで父に連れられて医者に行ったんですが、今でも傷が残っています。
 池田 それはびっくりされたでしょう。でも、今は懐かしい思い出でしょうね。
 私は実家が海苔屋で、やはり子どものころ、よく手伝いました。夜明け前に起きて、海水に手を入れて海苔を採る。いや、その寒さ、冷たさといったら。(笑い)
 私の父は頑固一徹の職人気質で、近所の人から“強情さま”と呼ばれてました(笑い)。児玉家では、「しつけ」は厳しかったほうですか。
 児玉 いいえ。私は長男ですが、親からああしろこうしろと厳しく言われた記憶はないですね。
 いつでしたか、父と山に登った折、切り倒した杉の木を二人でかついで帰ったことがありました。父は後ろから、先のほうをかついでいる私に「お前も十年経ったら、杉の木のように大きく育つんだよ」と語りかけてくれました。
 私はまだ小さかったもんですから、さっさと歩いていましたが、このことは今も忘れられないです。
 池田 すばらしいお話ですね。良一少年の成長を願われたお父さんの気持ちが響いてきます。
 私にも、似た思い出があります。子どものころ、私は体が弱く、母にもずいぶん心配をかけました。
 肺炎で熱を出して寝こんだとき、母は「あの庭のざくろをごらん。潮風と砂地には弱いのに花を咲かせ、毎年、実をつける。おまえも今は弱くとも、きっと丈夫になるんだよ」と――。温かい母の心につつまれる思いがして、何でもないようなこの言葉が、いつまでも心に残りました。
 それと、私が小学校四年生の時、リウマチを長く患い寝ていた父が少し調子がよくなって、「散歩をしよう」と言ってくれた。その時、一緒に庭を散歩したうれしさは、忘れられませんね。
 児玉 本当にそういうもんですね。
 池田 児玉さんは何人兄弟ですか。
 児玉 八人兄弟でした。私の上に姉が一人。そして私。弟がいて、その次が妹、そして二番目の弟と妹が続きます。さらに、私がブラジルに来てから二人の妹が生まれました。今はその妹が二人だけです。一人は大阪に、一人は東京にいます。
 池田 お母さんのご苦労も並大抵ではなかったでしょう。
 児玉 ええ、まあ。十三歳で両親と離れたもんで、くわしいことは思い出せないんですが……。池田先生は何人兄弟ですか。
 池田 私の家も男七人、女一人の八人兄弟でした。私は五男坊ですが、ほかに養子が二人いましたから、全部で十人。この十人の子どもに、母は平等に愛情を注いでくれました。
 ある時、みんなで一個のスイカを分けあって食べたことがありました。自分の分を食べ終えた一人が「お母さんはスイカが嫌いだから僕におくれよ」と“要求”した(笑い)。母はその時、「お母さん、スイカ好きになったんだよ」と言って、じつはその場にいなかった子どもの分を確保したんです。その時の母の声や表情は、不思議と今でも胸に刻まれています。母の公平な愛情に、幼心にも感動を覚えました。
 「他人に迷惑をかけてはいけない」「ウソをついてはならない」、そして「自分で決めたことは責任をもってやり遂げなさい」――これが母の口癖でした。人としての生き方の“根っこ”を教えられたと思います。
 児玉 美しい話ですね。私もこの年になっても、別れた時の母の悲しい顔が思い出されてなりません。
 池田 「父母」の存在について、仏典では「慈父」を「天」に、「悲母」を「大地」に譬え、親の恩の深さと報恩の正しい道を教えています。
 確かに、時が経てば経つほど、私もそれを実感します。
 児玉 なるほど、すばらしい譬えですね。
 池田 おじいさん、おばあさんとは、どんな思い出がありますか。楽しかったこととか。
 児玉 そうですね。夜、祖父に抱かれまして、子守唄を歌いながら寝かせてくれたことはよく覚えていますよ。
 池田 どんな唄でした。
 児玉 唄はですね……ちょっと、やってみましょうか。(笑い)
 ♪高い山 しゃら 谷ぞ 恐れ見れば よい 瓜やなすでろ 花ざかり よい 風が どんどんどん 風が どんどんどん
 池田 ほう、すごい。よく覚えていますね。幼いころに焼きついた日本の歌が心に生き続けている。
 児玉 小さいころのね、こういう歌は忘れられないもんです。そういえば“らっぱ節”というのが流行って、よく聞いたものです。また、初心者でも歌えたんですね。ちょうど戦争のころでした。
 池田 日露戦争ですね。
 児玉 ええ。
 池田 当時、児玉さんは、どんなお子さんでしたか。“やんちゃ”なお子さんでしたか。(笑い)
 児玉 まあ、おとなしいほうでした。(笑い)
 池田 そうですか(笑い)。そのころ、一日の生活はどのようでしたか。
 児玉 あのころ、まだ家には時計がありませんでしたけれど、学校が八時から始まっていましたから、六時か七時くらいには起きていたと思います。顔を洗って、朝ご飯をいただいてから学校に行く毎日でした。
 学校が家の前にありましたので、八時に学校の鐘が鳴ると、走っていって友だちと運動場に集まって、皆で教室に行くんです。
 友だちと遊べるので、毎日、学校に行くのは楽しみでしたね。
 池田 少年時代の友だちはいいものですね。なかなかお会いする機会もないんですが、私は小学校、中学校の担任の先生方や同級生との思い出は、人生の「宝」だと思っています。
 ところで、児玉さんは、勉強は何が好きだったんですか。(笑い)
 児玉 勉強はあまり得意ではなかったですが(笑い)、図画は大好きでした。“書き方”も得意でしたよ。結構、字がきれいなんです。私がブラジルへ来てから生まれた妹が、「兄さんは字がきれいだけど、どうして覚えたのか」と驚いたこともあるんです。
 池田 当時はどんな遊びが流行っていたんですか。
 児玉 そうですね、まだ野球もありませんでしたし……。ただ、五年生・六年生になる時分には、学校の友だちや先生と、皆でテニスをしました。
 池田 テニスとは、それはまたモダンですが(笑い)。学校にテニスコートがあったんですか。
 児玉 ええ。運動場が広かったですから。もちろん、舗装もされてなくて、土の上でしたが。
 池田 それにしても、よく覚えておられる。テレビもない時代ですし(爆笑)、遊び方も上手だったんでしょうね。私は何か、児玉さんと一緒に明治時代の日本に帰ったような気がします。(爆笑)
2  戦争の記憶
 池田 先ほどもちょっと話が出ましたが、児玉さんが子どものころ、日露戦争が起きました。戦争について、何かご記憶はありますか。
 児玉 日露戦争は、私が十歳くらいのことでした。たしか「第五師団」といいましたが、広島から出征した部隊がありました。
 私たちは直接、戦災に遭うことはなかったですが、当時は、小学校でも銃を教えられたんです。
 もちろん本物ではなく、木で作った「模造銃」でしたが、それで練習したのを覚えています。学校には着物で行ってましたが、練習のときはズボンにはきかえてね……。
 池田 私も太平洋戦争の時、木製の銃を与えられ軍事教練に参加させられました。結核は進行するし、体が弱ってましたから、行軍訓練中に血を吐いたりもしました。
 当時十六歳でしたか。ちょうど児玉さんが、ブラジルで本格的に仕事を開始されたころの年齢です。
 児玉 ブラジルに移住してから、長男を戦争にとられたことがありました。幸い無事に帰ってきましたが、とにかく戦争は、人の生活も心も、めちゃくちゃにしてしまうものです。
 池田 私の一家も、空襲に追われ、兄弟は戦争にとられました。長兄は出征先のビルマで戦死しました。
 戦争の残酷さ、悲惨さを体験した人々は、戦争をこの世界からなくし、真に平和な社会を築くために、若い世代に語り継いでいくべきだと私は思います。
 児玉 恐ろしい戦争は、もう二度とあってほしくない。人間のいちばん悪い行いだと思います。
3  歴史的な笠戸丸の船出
 池田 児玉さんをはじめ、第一次日本人移住者の方々を、新天地ブラジルへと運んだ船、これが歴史に名をとどめた「笠戸丸」です。
 資料によると、一九〇〇年、英国の造船会社が建造したもので総重量六〇〇〇トン。元の名は「カザリン丸」ですね。この船は、じつはロシアに購入され、日露戦争ではバルチック艦隊の病院船でした。
 戦争後、日本軍がこの船をロシアから収容して、改造したものを、政府が東洋汽船会社に払い下げたのです。その後ハワイ(一九〇六年)、ペルーおよびメキシコ(一九〇七年)の移民輸送に活躍し、ブラジルへも就航しました。
 ブラジル行きの「笠戸丸」は、神戸港からの出航でしたね。
 児玉 ええ、そうです。広島から神戸まで汽車でやってきて、そこから出航しました。
 一九〇八年(明治四十一年)四月二十八日の午後五時五十分――。山田さん親子や池町さんとも一緒でした。
 神戸では、たくさんの人たちに見送ってもらったのを覚えています。何とかという政治家の人が、「皆さんが無事ブラジルに着いて、しっかり働いて成功することを期待します」といった内容の話をしました。
 池田 移住者は、全部で七百八十一人ということですが。
 児玉 いちばん多かったのが沖縄の人で(約三百人)、やはりサンパウロが亜熱帯ですから、体質的に最も合うということだったのかもしれませんね。二番目は鹿児島だったと思います(約百五十人)。それから福島・熊本・広島・山口・愛媛と……。監督として、移民会社の水野龍社長、上塚周平さんという二人の方が同乗していました。あとはほんの小人数でしたが、自由移民としてアルゼンチン、ペルーなどに行く人も二十人ほど乗っていました。
 池田 皆さんは、どのような職業だったのですか。やはり農業が多かったのですか。
 児玉 いえ。学校の先生などが多かったようですね。農業者というのが条件だったのに、農業の人は少なかった。他の職業の人のほうがたくさんいたんではないでしょうか。
 池田 そうですか。それぞれの人たちのそれぞれの「人生の夢」を乗せた笠戸丸――。渡航する人たちの様子はいかがでしたか。
 児玉 皆、希望に燃えていました。コーヒーをやって早くお金を儲けて、故郷に帰ろうと話しあっていました。
 池田 でも、現地での生活のこととか、お金のこととか、心配だったでしょう。
 児玉 それはそうですね。お金は行く前から必要でした。生活費や、服も自分で用意しなければなりませんでしたし、“裸一貫”ではこれませんでした。移民会社からは、余分のお金を用意してくるようにとは言われませんでした。おまけに出発の時にお金を移民会社に預けたんですが、ブラジルに着いた時に返すという約束だったのに、着いてもしばらくは返してくれないんです。
 とうとうそのまま返してもらえず、泣き寝入りに終わった人もいました。皆あとで困ってしまって、呆れかえったものでした。
 池田 うたい文句とは裏腹の厳しい現実に、皆さんの落胆は相当なものだったと思います。とくに第一次移住の方々は、艱難辛苦の連続を乗り越えて生きぬかれた尊い“歴史の証人”です。

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