Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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12月度本部幹部会 妙法で永遠の栄光の軌跡を

1987.12.4 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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1  最大に輝かしい新春を
 寒いなか、ご参集してくださった皆さまに、心よりご苦労さまと申し上げる。また、この一年、全国の同志の皆さま方は、よく戦い、よく走り、よく成長し、よく前進し、広布の基盤を、よく構築してくださった。皆さま方の偉大なるご健闘を最大に称賛し、感謝申し上げたい。そして全創価学会員が、最大の歓喜と幸福に包まれ、輝かしい新春をお迎えくださることを、私は日々、御本尊様に祈念申し上げている。
 さらに「月月・日日につより給へ」の御聖訓通り、明年も晴れがましく、一歩前進と一歩成長の、素晴らしき一年でありますよう期待してやまない。
2  御書の「聖人知三世事しょうにんちさんぜじ」には「松高ければ藤長く源深ければ流れ遠し」との有名な一節がある。
 ここでは「松」と「源」とは持つ所の″法″にたとえ、「藤」と「流れ」は法を持つ″人″にたとえられている。すなわち松(法)が高ければ、それをつたって伸びる藤(人)も高く伸びていく。川の源(法)が深ければ、その流れ(人)も長遠となる。南無妙法蓮華経というもっとも尊高にして深甚無量の「法」を持つ「人」も、福徳を無限に伸ばし、永遠の幸福を確立できる。これが「法妙なるが故に人貴し」の法理である。
 ゆえに妙法の御当体であられる大聖人は「幸なるかな楽しいかな穢土えどに於て喜楽を受くるは但日蓮一人なる而已」と、御自身の大境界を述べておられる。
 ――なんと幸せなことよ。何と楽しきことか。けがれた娑婆(しゃば)世界にあって、喜びと楽しみを受けるのは、ただ日蓮一人のみである――との悠々たる御境界であられる。
 「一生成仏抄」に「浄土と云ひ穢土えどと云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」と仰せのごとく、浄土も穢土も、すべては一念一心の反映である。御本仏のおわしますところ、いずこであっても、そこが即寂光土じゃっこうどなのである。
 そして大聖人の門下であり、御本尊をたもった私どももまた、我が人生で絶対の幸福をつかみきることができる。また、つかまねばならない。
 戸田先生はかつて、この「聖人知三世事」の講義をされた。その折、この御文のところで述べられた指導が、今もって私の耳朶じだから離れない。
 「御本尊があるから大丈夫だ。御本尊を拝んでいるから、自分は大丈夫だ。この確信が胸の奥底から出るようになったら信心は一人前です。……私は御本尊を拝んでいるのだ。今朝も拝んだ。今も拝むのだ。わが人生は大丈夫だという確信がつけば、もう大丈夫です」と。
 妙法への信心が深く確実であるならば、その「人」は「法」とともに永遠に栄える。要は、その大確信があるか否かである。この原理は、一家一族においても同じである。また広くいえば、民族も国家も、法の流布とともに栄えていく。
 四十年前、日本は敗戦で貧乏のドン底の国であった。それが今や世界有数の繁栄を示している。そして世界で一番妙法が広まっているのも日本である。この軌を一にした眼前の現実ひとつ見ても、妙法には、どれほどまでに絶大なる力、不思議なる功力があるか。そのことを深く強く確信していただきたい。
3  強き信心の一念は何ものをも変革
 一切は「信心」、我が胸中の「一念」で決まる。ここに信心の精髄がある。それを我が人生を通して体得し、実証しなければならない。ここに仏法の要諦ようていがある。
 このことについて「四土しど」の法理を通し、少々述べておきたい。それは、大聖人が「穢土えどに於て喜楽を受くるは但日蓮一人なる而已」と仰せになった深義を、いささかなりとも正しく拝していくためでもある。
 「四土」とは、四種の国土のことである。天台宗で立てる四土のほか、唯識家(法相宗)や摂論宗で、それぞれ立てる四種の仏土などがある。ここではもっとも一般的な天台所立の四土についてのみふれることにする。
 一つは「凡聖同居土ぼんしょうどうごど」。これは人・天界等の凡夫と、二乗・菩薩・仏の四聖とが同居する国土のことである。大きく二つに分かれ、「同居どうご穢土えど」と「同居の浄土」がある。前者は娑婆世界のように、不浄が充満したなかに六道の凡夫も四聖もともに住む国土である。後者は、清浄に荘厳されたなかに、四悪趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅)がおらず、人天と四聖のみが同居する国土である。
 念仏宗で理想とする西方の「極楽浄土」は、実はこの「同居の浄土」にあたる。阿弥陀如来のもと、この国の衆生は一切の苦がなく、もろもろの楽のみ受けると説き、安楽世界(安楽国)ともいう。しかし四土のうちでも、ある意味でもっとも低い位置に置かれた「凡聖同居土」の一種に過ぎない。
 二つには「方便有余土ほうべんうよど(方便土)」であり、二乗、菩薩が住む国土である。一説では、彼等が方便道を修して一応、見思惑けんじわくを断じたゆえに方便といい、塵沙じんじゃ無明むみょうの惑を断じ残しているゆえに有余という。
 三には「実報無障礙土じっぽうむしょうげど(実報土)」であり、別教の初地(菩薩の修行である五十二位のうち四十一位、十地の第一)以上、円教の初住位(不退位)以上の菩薩が住む国土である。真実の仏道修行の果報として必ず功徳を感得するので実報といい、色心が互いに妨げず自在なので無障礙という。
 四には「常寂光土」である。法身ほっしん般若はんにゃ解脱げだつの三徳をそなえた仏の住む国土である。

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