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日蓮大聖人・池田大作

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学会創立五十七周年記念勤行会 「創立の志」を広布の炎と

1987.11.18 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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1  民衆万年の幸福こそ学会の使命
 菊薫り、晴天のよき日、我が創価学会の創立記念日を迎えることができた。ここには海外七ヶ国の同志も集い、また秋谷会長はじめ、ますます意気高く広宣流布の指揮をとる全幹部の皆さま方とともに、この日を祝賀でき、私は大変にうれしい。特に、牧口家、戸田家のご家族もおいでくださり、感謝申し上げたい。
 御書に云く「夫れ須弥山の始を尋ぬれば一塵なり・大海の初は一露なり」と。
 生きとし生けるものすべてに厳粛なる″誕生″の瞬間がある。とともに、いかなる組織、いかなる大事業にも忘れ得ぬ″創立″の時がある。
 我が創価学会の淵源は、昭和五年(一九三〇年)の十一月十八日。この日発刊の「創価教育学体系」第一巻(著者・牧口常三郎、発行兼印刷者・戸田城外)の奥付で「創価教育学会」の名が、初めて世界に発表された。まさに、学会の出発はそれ自体、大いなる広布への戦いの旅立ちであるとともに、思想戦の開始であった。
 時に牧口先生は五十九歳。今の私と同じ年齢である。また戸田先生は三十歳。現在の青年部幹部と同じ年代である。牧口先生と戸田先生のお二人は、この二年前の昭和三年(一九二八年)に、日蓮大聖人の仏法に帰依された。この年は私が生まれた年でもあった。
 当時、世界は前年の昭和四年(一九二九年)十月二十四日に起こった、ニューヨーク・ウォール街の株式市場大暴落の暗雲に見舞われていた。いわゆる「暗黒の木曜日」に端を発した大恐慌の真っただ中であった。
 創立四日前の昭和五年十一月十四日には、時の首相・浜口雄幸おさちが、東京駅のプラットホームで狙撃されるなど、世情は騒然としていた。そうした中で学会は、人知れず、しかし大いなる誕生の産声をあげたのである。なお、創価教育学会の正式な発会式は、昭和十二年秋に行われている。本年でちょうど五十周年になる。
2  牧口先生は、若き日の日淳上人から正宗の法門を学ばれた。日淳上人は、牧口先生の思想と行動、また人格をじつに深く理解なされ、称賛されていた。たとえば次のように述べられている。
 「(大)聖人の御教示と牧口先生の観ずる世界と、少しも相違していないといえましょう。ただ牧口先生は教育家であり、したがって教育の面から、創価ということをいわれたものであると見られます」
 「私は先生が、法華によって初めて一変された先生でなく、生来仏の使であられた先生が、法華によって開顕し、その面目を発揚なされたのだと、深く考えさせられるのであります。そうして先生の姿に、いいしれぬ尊厳さを感ずるものであります。先生には味方もありましたが、敵も多かったのであります。あのいばらの道を厳然と戦い抜かれた気魄、真正なるものへの忠実、私はおのずから合掌せざるを得なくなります」と。
 そして、あとに続く私どもに、次のように呼びかけられた。
 「自分の使命を、自覚し、しかも各々その境地のままに、仏身仏国土の顕現をなし得るという牧口先生の実証されたこの道に学会の存在理由と、特別な意義が、あると思いますが、皆さんには、それを益々確実に把握せられて、さらに先生を乗り超えその使命にって邁進まいしんせられんことをねがってやまないのであります」(『日淳上人全集 上巻』)
 これは学会再建後の間もない昭和二十二年(一九四七年)、第二回総会での御講演であり、日淳上人は心から学会を理解し、私どもを大切にしてくださった。また代々の上人も同じ慈悲の心で見守ってくださった。
 日淳上人が言われたように、学会は、大聖人の仏法を信奉し、民衆一人一人の成仏と仏国土の建設、つまり広宣流布の実現のために誕生した団体である。それは牧口先生と戸田先生によって創設されたが、広宣流布のため、仏意仏勅の実現のため、時を得て出現したのである。決して簡単に考えるべきものではない。
 戸田先生は、昭和三十年、関西の第一回堺支部総会の席上、「百年の大計、いな何千年の平和の大計をたて、もって日蓮大聖人様の御恩に報ずるとともに、民衆万年の幸福を確立することが、創価学会の使命である」と述べられている。
 私どもはこの指導のごとく、学会創立の意義に思いを深くし、どこまでも地涌の勇者としてみずからの使命に邁進したい。
3  ところで、この十一月十八日は、学会の創立記念日であるとともに、奇しくも牧口先生の祥月命日にあたる。
 すなわち、昭和十九年の十一月十八日、牧口先生は、約一年四ヶ月の獄中生活の末、東京拘置所の病監で逝去された。『富士宗学要集』の法難史にも厳然と記されているごとく、牧口先生は、妙法弘通ゆえの大難に殉ぜられた。時に七十三歳であった。この牧口先生の獄死は、大聖人の仏法の精髄を体得されての覚悟の殉教であった。
 学会の発会式が行われ、本格的な折伏活動が開始されたのは今からちょうど五十年前、昭和十二年のことである。牧口先生は、会員のために発行された小冊子の中で、信心の極意ともいえる次の一点をあげられている。
 「紛起ふんき(=みだれ、おこること)する内外の障魔を恐れざる上、進んで之をり出し、克服することによって、益々信仰を増し、之をもって他を化する(=他人を教化する)ことによって、旧債償還きゅうさいしょうかん(=以前の負債を返却すること)以上の功徳を積み、毒を変じて薬となす如く、わざわいを転じて福となし、もって最大幸福の域に達する法を授けられる」(『牧口常三郎全集 第八巻』第三文明社)と。
 まさしく牧口先生は、あえて難を引き起こし、難と戦い、難を乗り越えていく一点に、信心の精髄があり、大聖人門下の誉れがあることを身をもって教えてくださったのである。
 みずからがつくられた学会″創立″の意義深き記念の日に、広布の大難に屈することなく、厳然と戦い抜かれて、殉教の誠を尽くされた。ここに、学会の″創立の精神″が象徴的に示されているし、広布に向かいゆく学会精神の真実があると、強く申し上げておきたい。

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