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九州代表者会議 峻厳な行学錬磨の伝統を

1987.10.21 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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1  時代創造の人材群を育成
 本日は、福岡研修道場での初の研修という意義も込めて、少々お話をしておきたい。
 九州の地に、研修道場が誕生したのは昭和四十七年(一九七二年)。鹿児島の九州研修道場である。以来十五年、この研修道場では、信行錬磨の金の歴史がつづられ、広布の幾多の人材が育っていった。
 そして、このたび小規模ながら、九州で二番目の福岡研修道場の完成をみた。この建設に当たって、さまざまにご尽力くださった皆さま方に、心から敬意を表したい。
2  福岡研修道場は、玄界に臨む糸島郡志摩町に位置する。「筑紫富士」とも呼ばれる秀麗な可也山かやさんのふもとに道場はある。
 糸島の地は、福岡県の西端に位置し、佐賀県にも接している。亜熱帯の暖かさを乗せて北上する対馬つしま暖流の影響で、県内でも、もっとも暖かい地域の一つとなっている。
 可也山は、あまり高い山ではないが、富士山に似た美しい姿である。山のまわりは七葉に分かれており、どこからみても同じ形にみえる。
 古来、多くの歌によまれ、『萬葉集』巻十五(『日本古典文学大系七』所収、岩波書店)にも「草枕旅を苦しみ恋ひれば可也の山べにさを鹿鳴くも」(旅の苦しさに、故郷を恋しく思っていると、可也の山辺に男鹿が鳴く。それを聞くと恋しさがまさる)とある。
 この歌は、新羅しらぎ(朝鮮・韓半島にあった古代の国)への使者、遣新羅使一行の一人がよんだもので、大阪の難波津なにわずから出航し、この地を経由して新羅に向かう途中の歌とされている。
 この歌にも象徴されるように、糸島の地は、古くから中国や韓国・朝鮮との交流の地であった。有名な中国の『魏志倭人伝ぎしわじんでん』に記されている、伊都国いとこくは、この糸島郡にあたるのではないか、とする説もある。
 可也山の名前の由来についても、一説には、韓国から来たのではないかといわれる。韓国古代の伽耶かや文化は、日本に影響を与えており、また現在でも韓国には伽耶山という同じ名前をもつ有名な山がある。
3  話は変わるが、戸田先生は、三十年前の昭和三十二年(一九五七年)四月二十一日、第一回九州総会の折、次のように言われている。
 「さきほどから聞いていると、『九州広布はわれらの手で』といっているが、あまりそんなことは言わないほうがいいと思う。私は北海道で育ったが、北海男児なんて聞いたことがない」「関東男児とか、大阪男児とか、中国男児ということも聞いたことがない。九州だけは九州男児という」
 「その九州男児が、九州広布はわれらの手で、などといっているが、これはどういうわけですか。せめて東洋広布はわれらの手で、というならまだしもだが、どうも、このごろの九州男児は、気が小さくなってきたようだ」と話されていた。
 また、戸田先生は「(大阪で)ここまでの戦いができた以上は、こんどは九州が大事になってきた。年内に、九州大本部をつくりたい。そして月に一回は九州へ来て、講義をしたい。安い土地で、いい建物があればなんとか買いたいものである」といわれた。
 三十年後の今日、″九州男児よ、東洋広布、世界広布を目指せ″との、戸田先生の呼び掛けは、この度のSGI総会、世界青年平和文化祭で、立派な一つの結実をみた、と私は申し上げたい。さらに″九州に大拠点を″との構想も、九州池田講堂、また福岡研修道場の完成で、実現することができた。戸田先生はどれほどかお喜びであろうと、私は確信してやまない。
 この第一回九州総会に出席された当時、すでに戸田先生のお体は、大変に弱っておられた。総会から十日後の私の「若き日の日記」には「四月三十日、先生倒る。重大なる学会の前途。今年は悲しきことばかりなり。三障四魔の嵐の年である……」(本全集37巻収録)と記している。
 ともかく、戸田先生が九州に対して、いだき、期待されていたことが、皆さま方のお力によって実現され、本当にうれしく思うとともに、心から感謝申し上げたい。

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