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日蓮大聖人・池田大作

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神奈川文化総会 人生の精髄は「知恩」の行動に

1987.9.6 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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1  「大悪おこれば大善kいたる」を確信
 見事なる「平和と青春の賛歌」に心から感動を覚えた。まことに意義深き文化総会である。出演された皆さま方、そしてご参集の方々の労を最大にたたえ、また感謝申し上げたい。
 私が会長職を勇退したのは八年前、昭和五十四年(一九七九年)である。五月三日のバトンタッチの儀式は、場所も同じ、この創大の中央体育館が会場であった。勇退の折には、多くの方々に、ご心配をかけたり、寂しい思いをさせてしまったかもしれない。しかし、会長職を次に譲ることは、その十年も前から考えていたことである。むしろ私も、私の妻も、ほっとした思いであった。
 私は内心、「さあ、これからだ」と決意していた。縛られていた獅子が、いよいよ自由になったのだ。これから、思う存分に、走り始めよう。全世界の広宣流布の荒野を切り開いていこう。学会を守り、すべての大切な仏子を守るため、厳然と、自在に戦っていこう。こういう決心であり、一念であった。その心を知る者は当時、誰もいなかった。
 私は、第四代となった北条前会長を激励した。寂しく思ってはならない、これからが、いよいよ本格的な前進の時代に入ってきたことを忘れてはならない、と。
 当時は、私に対する非難や攻撃も雨の降るがごとくあった。かつての同志の裏切り、逃避、嘲笑も続いた。しかし、これからは「大悪をこれば大善きたる」との御書の仰せ通りに大発展がなされるであろうと、私は心ひそかに喜んでいた。陥れんがために作られた批判など何も恐れる必要はない。私は荒れ狂う嵐の中、今日の日蓮正宗創価学会の勝利を見通し、そのための布石を一つ一つ、確実に打ち続けていった。
2  この五月三日の会合のあと、晴れ晴れとした気持ちで私が真っ先に訪れた地――それが神奈川である。以前から私は、神奈川の重要性を深く銘記していた。
 国土世間にも、個人と同じく、必ずそれぞれ使命があり、何らかの重大な意義があると言ってよい。
 東京は広布の決戦場である。その東京も、神奈川が発展し、躍動してこそ、支えられ、力を発揮する。その意味で、神奈川の地域は首都圏の″かなめ″である。また同様に、埼玉、千葉が発展しなければならない。
 関西においては兵庫、神戸がホシである。兵庫が盤石であれば、関西の安定も、限りなき前進もある。ゆえに兵庫、神戸には、これからいよいよ力を入れ、応援していきたいと思っている。
 ともあれ、何事にも、はずしてはならないポイントがある。広布の指揮も、単に御本尊に祈っているから自然にうまくいくといった安易なものでは絶対にない。自分の浅はかな考えを頼りに、勝手に進んでいけばよいのでもない。指導者は、深い信心の上にも正しき道理に基づき、ホシをはずさず、緻密に手を打っていかねばならない。
 この意味から、私も、大切な神奈川にたびたびうかがった。また第二東京にも、立川文化会館を中心に、幾たびとなく訪れた。そのことによって、障魔の攪乱を厳として防いだ。早くこの地に手を打っておかなければ、数多くの犠牲が出ることを私は察知していたからである。
 みな当時は、そのことが、なかなかわからなかった。いざ大難が起こると、ハラがきまらず、うろたえる人間が多かった。そうしたなか、私は一人、苦難を乗り越え、先手を打ちながら、現在の発展と勝利の礎を、営々として築いてきたつもりである。
3  「師弟の道」は「知恩の道」に
 さて、本年は恩師戸田先生が歴史的な「原水爆禁止宣言」をされて三十周年を迎える。神奈川の三ツ沢競技場で行われたあのときの光景は今もって忘れることはできない。
 そのとき戸田先生は「いやしくも私の弟子ならば、私のきょうの声明を継いで全世界にこの意味を浸透させてもらいたい」といわれた。私どもにとって戸田先生は人生の師であった。その人生の師の遺志を継いで私どもは、日本中に、また全世界へと「広布」と「平和」のために走り、戦ったのである。
 なぜ創価学会の平和運動が世界的な広がりをもち、永続的な展開をすることができたか。その一つの理由をある識者が論じていた。
 「仏法という平和理念を基調として、人生の師弟という美しい絆がそうさせたにちがいない。師の遺訓をそのまま受け継いでの実践があったからであろう」と。
 他の平和運動の多くが、政治的に偏向して、分裂をした。あるいは利害と売名の運動に陥ったりした。その中で創価学会は、これだけの一大平和勢力を築き、歴史的な成果を後世に残すことができた。これも恩師の遺訓を受け継いで、利害でも売名でもなく、″師弟の道″をまっしぐらに進んできたからである。

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