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日蓮大聖人・池田大作

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記念県長研修会 正しき仏法は生活、社会に脈動

1987.7.29 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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1  北海の天地に蘇生と繁栄の歴史を
 北海道、とくに地元の函館、渡島、檜山等の皆さま方には、このたびは何かとお世話になり、心から感謝したい。また、全国からお集まりになった県長会議のメンバーには、遠路、本当にご苦労さまと申し上げたい。
 昨今の、北海道の経済不況は深刻である。炭鉱の相次ぐ閉山や、外国からの厳しい漁獲制限など、主要産業への打撃が続いており、失業率も、全国で最悪の五・三%に及んでいる。北海道は、今大変な時代を迎えている。
 しかし、闇が深ければ深いほどあかつきは近い。絶対に希望を失ってはならない。何よりも私どもには妙法があり、励まし合う同志がいる。郷土の蘇生と繁栄を目指し、希望高く前進していくよう心から念願したい。
 先日も、北海道のある圏長が、失業したメンバーの家を一軒一軒たずね、激励しているとの話をうかがった。北海道は圏とはいえ、他県と比べ、はるかに広大な地域である。そこをコツコツと回り、失業者の全家庭を訪問したということをうかがい、まことに尊い姿であり、深い感動を覚えた。
2  大聖人の仏法は実際的、活動的、積極的
 ご存じんじのように日淳上人は、学会に深い理解を示され、戸田先生をはじめ学会の同志を最大に守ってくださった。そのあたたかな御心は、今も忘れられない。
 日淳上人が青年時代に書かれたもののなかに「消極的信念より積極的信念へ」(『日淳上人全集 下巻』)という論文がある。
 そこでは仏法と実践についてふれられ、「由来仏教の精神は実際的でそれ故活動的である。そうしてそれは又積極的である。末法の本仏の教はの三つの精神を具えている」と。
 つまり、本来、大聖人の仏法の志向性は、実際的であり、活動的であり、積極的である、と。私もこの段を読んだとき、まったく深い共感を覚えたものである。
 「むづかしい議論や理屈を説いて仏の教をうであるといつてもれが実際とはなれてゐる場合には仏の教を談じて居るのではない」
 いくら高度な理論や高尚な精神を説いたとしても、それが現実の生活、人生、社会の中で顕現されていないならば、本当に仏法を説いたとはいえない、との厳しき言葉である。
 たしかに、むずかしい議論や理屈だけを説いて教学があるように見せながら退転していったものたちの姿を見るとき、このお言葉はまことに要を得たものと実感する一人である。
 ともあれ、仏教の精神を、本来「実際的」「活動的」「積極的」と述べられたところに、当時、青年僧侶としての気概がほうふつと感じられる。まさに、真実の仏法は葬式仏教ではない。生活と社会に、生き生きと脈動する生きた宗教なのである。
 さらに「本因下種と云ふ事は末法の本仏の衆生済度さいどに対する上の相の第一義ではありますが、此をもって仏様の御化導の上の姿の判別にのみ用いて自分の生活様式の範であることに気がつかぬなら本因下種の御教は死んで居る、其の時は本因下種を談じつゝ御本仏の生命を断っておるのである」と述べられている。
 大聖人の仏法は本因下種仏法であり、現実に生活を変革し、社会の転換をなしとげていける生きた仏法である。もしそれができなければ、本因下種仏法の生命を断っていることを深く銘記せねばならない。
 また、この論文は、生活と社会に根ざし「実際的」「活動的」「積極的」に広布を進めてきた学会の活動が、いかに大聖人の御心に則った、正しいありかたであるかを証明してくださるものであると思う。
3  さらに上人はこう述べられている。
 「本因下種とは常に此れからだといふ心持ちであることであるといって差支さしひかへあるまい(中略)此れを見ても如何いかに積極的であるかゞ伺はれる。私のいふ積極的信念とは此の境地に住し、すなわち此の末法の御本仏にすがっての信念である」と。
 つまり、法華経をたもち行ずる者にとって「積極的信念」とは、信心を根本に、いかなる苦境にあろうが、″つねにこれからだ″″これからが本当の勝負だ″との、前向きな姿勢を堅持し続けることである。
 北海道も、まさに″これからが本当の勝負″である。皆さま方は、常に″これからだ″との意気で、妙法を根本にたくましく郷土の建設に進みぬいていただきたい。
 また、私がつねづね感心するのは、北海道の歴代の青年部長、男子部長、女子部長が、一人も退転することなく、広布の使命に徹し切って活躍していることである。
 このような姿は各方面の模範となるもので、広布の基盤と人材の流れが、理想的に出来上がってきている象徴といってよい。
 厳寒の地・北海道は、すぐれた人材が陸続と輩出している国土となっている。北海道の広宣流布は、地道のようだが確実に前進してきた。その歴史は、哲学史上、思想史上、仏法史上、永遠に語りつがれていく壮挙であると私は確信する。

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