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日蓮大聖人・池田大作

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船橋幹部大会 金剛の美しき″生命の光″を幾重にも

1987.7.13 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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1  美しき「人華」の理想の天地を
 本日は、猛暑のなか、このように、ご参集いただき、感謝にたえない。また、大変に繁多であるところ、私の都合で平日の会合となってしまった。さらには、御講の日とも重なり、申し訳なく思っている。ともあれ、きょうは、船橋の同志の方々の、お元気な姿を拝見でき、これほどうれしいことはない。
 ここ船橋への訪問は、実に十八年ぶりとなった。久し振りに、船橋の風土にふれ、その美しい空と緑、そしてみずみずしい田園風景に、さわやかな感銘を受けた。人間の業と苦の藤渦巻くような東京と比べ、皆さま方こそ幸せと感じとっていただきたい。
 それだけに、皆さま方には、ぜひとも「美しい時間を過ごしてほしい」また「美しい同志と美しい道を歩んでほしい」、さらには「美しい心の人生を生きぬいていただきたい」と、心から、念願せずにはいられない。
2  これは、決して、単なる感傷や観念で申し上げているのではない。正法は、感傷でも、センチメンタリズムでもない。つまり大法は、あくまで現実の中に生かされてこそ、そのあかしがある。生活の根本であり、現実の生き方に反映されていくものである。
 かつて、ある財界人と懇談した折、次のような話をしていた。
 ある日、帰宅すると、息子が友人の学生と対話をしている。隣で聞くともなしに聞いていると、宗教について話している。学生の説く宗教は、今まで考えていた宗教観とは全く違う。現実のなかに根づき、生きるための原動力となっている。しかも、実社会、実生活に深く関与しながら、その宗教をたもつことで、その学生は、まことに美しい″心″をきらめかせていた。その点に感銘し、息子ともども、入信した――と伺った。
3  ところで現代人の心は、余りに″美しさ″を見失ってはいないだろうか。
 次のような文章にふれた時、私は、心がやすらぎ、共感を抱くのである。
 「細いみちの両側にすすきの穂がのびて、秋草が咲いていた。雑木林の上に空がひろがり、青い空の奥に小さな白い雲が動く。風はなく、どこからも音はこえて来ない。信州の追分の村の外れで、高い空と秋草の径は、そのとき私に限りなく美しく見えた。たとえ私の生涯にそれ以外の何もないとしても、この美しい時間のあるかぎり、ただそのためににだけでも生きてゆきたい」――。(『ミセス』一九七九年一月号)
 これは、加藤周一氏のエッセー「美しい時間」の一節である。太平洋戦争が始まったころ、いつまで生き延びられるか分からないと思う日々のなかで、今も意識に残っている″美しい時間″であるという。
 「美しく見えた」ということは、それは、ある意味で見る者の″心″の反映でもあろう。貧しい心や、余裕のない人には、本当の″美しさ″は感じられない。たとえば、借金地獄に呻吟しんぎんする人は、どんな光景にも″美″を感ずることはないだろう。
 御書には、「餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり」と仰せである。
 つまり、生命の境涯によって、見える世界が、まったく異なる。豊かな自然に触れても、「美しい」と胸をはずませる人もいれば、何も感じない人もいる。すべて、生命の境涯の大きさ、広さによるのである。

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