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日蓮大聖人・池田大作

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第13回「転輪会」総会 世界を駆ける転輪王のごとく

1987.5.17 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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1  現実変革のための信心
 本日、ここに参加されたすべての方々に、心からおめでとうと祝福の言葉を申し上げたい。今朝も勤行のさい、皆さま方のご多幸とご長寿、そして大いなるご活躍を深くご祈念させていただいた。
 本日は、家族と、語り合うようなつもりで、日ごろ考えてきたことを、述べさせていただきたい。
 かつてパリ大学の教授であり哲学者であった故・森有正氏は、その著書『経験と思想』(『森有正全集12』所収、筑摩書房)の序文で、次のような話を紹介している。それは、フランスの高等教育機関である「コレージュ・ド・フランス」のある教授が、亡くなった友人を追憶した美しいエピソードである。
 その友人は、教授の郷里である南フランスの小学校の同窓生で、農民であった。彼は、若くして兵隊にとられた。間もなく第一次世界大戦が勃発ぼっぱつし最前線に送られる。そして二週間もたたないうちに、両手両足に重傷を負ってしまった。しかし彼は、そうした不幸に屈せず、あらゆる努力をして義手義足を駆使し、ともかく人並みに働けるまでになった。そして、七十余年の勤勉な生涯を生き抜くのである。
 そうした同郷の友の姿を通して教授は、こう言う。
 「フランスにはこのように、デカルトの『方法叙説じょせつ』を読む必要のない人間が多数いるのだ。だからこそまたデカルトのような人が出るのである」(同前)と。
2  この教授とその友人とのエピソードを通して、森有正氏は次のように言う。
 この農民のようにあらゆる障害に打ち克って、自立の人生を開拓するのでなかったら、哲学上の精緻な論証も無意味であり、ひまつぶしである――と。
 森氏のこの指摘は、私ども信仰者にも相通ずる意義を含んでいる。
 私どもも、たえず御書を拝しながら、広布への活動をすすめている。しかし、いかに御書を拝読し、教学を研さんしたとしても、退転したり、現実生活で信心の実証を示していかないのであれば教学を学ぶ意味がない。それでは、所詮、観念の教学にすぎなくなってしまうし、教学は退転しないためにあるものである。
3  さらに森氏は次のように続ける。
 「自分が出会った苛酷な現実をしっかりと凝視し、それを背負い切るところから始めた。そこからかれの成熟が始まった。年々の豊かな収穫は、その『思想』であると言えないだろうか」(同前)と。
 人生には、思わぬ「苛酷な現実」に出あうこともある。しかしこの農民は、現実の宿命と真正面から戦い、自立の人生を勝ちとった。ここに彼の人間としての成長があり、彼の「思想」の豊かな実りがあった。
 私どもは「妙法」という、一切の宿命を乗り越えて、自分らしい所願満足の人生を勝ちとっていける最高の源泉の力を知っている。
 厳しい現実社会の中で生活し、生きている生身の人間である。ゆえに重い病に倒れることもあろう。経済的な挫折にあうこともある。また交通事故等で深刻な傷害を負うかもしれない。そういうときに″もうだめだ″と逃避する、弱い人間であってはならない。その宿命と真っ向から戦い、自分の責任において人生を生き、勝ち抜いていく一人一人であらねばならない。
 現実変革のための信心――それが妙法の信仰に生きるものの「思想」であり真実の姿といえる。

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