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日蓮大聖人・池田大作

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婦人部国際部記念勤行会 「立正安国」は万国共通の法理

1987.3.17 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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1  忍耐づよい信心の持続に冥益
 きょうは、優秀な方の集まりだと思いますから、少々所感を述べさせていただきたい。
 まず「何があっても信心を退してはならない。生涯、信心を貫き通すなかにしか、人生の実像の幸福はないからだ。
 今日までの歴史の中でも日蓮大聖人御在世当時の大難、また第二次世界大戦中の軍部の弾圧、さらに近年の障魔の嵐の折などに、信心弱く退転した人々がいる。その末路はいずれも、わびしく、あまりにもみじめな姿であると述べ、一時の苦難に紛動されて、永劫に後悔に沈む愚を犯してはならない。
 また、世間のきらびやかな世界や、華やかな立場に真実の幸福があるのではない。いかに一時的に素晴らしい境涯に見えようとも、正法に基礎を置かぬ幸福は、所はかない虚像の幸福であると指摘し、信心による「一生成仏」にこそ永遠に崩れぬ実像の幸福が躍如としている。
2  ″一人″の成仏は、一家一族、子孫末代、先祖にまで、ことごとく「与同利益」を与えていくものである。それほどに絶大なる力ある妙法である。逆に一人の退転は「与同罪」を広げていくことになってしまう。これほど自身も周囲も不幸なことはない。
 ゆえに、いかに苦しいことがあろうと、歯をくいしばって信心で乗り越えていかねばならない。それは誰のためでもない。すべて自分自身のためである。やがて、その小苦の何千倍、何万倍もの福運と栄冠に包まれていくことは間違いない。
 現在は、かってとくらべて、すべてにわたって信心しやすい恵まれた環境が整ってきている。そうであればあるほど自身の使命への一層深い自覚をもつとともに、強盛なる求道の信心に励む一人一人であっていただきたい。
 御書に「利根と通力とにはよるべからず」と仰せである。「利根」「通力」については、後日、話をしたいと思うが、これはいわば特別な力をもつことをいう。
 他の人よりずば抜けた力がなければ、広宣流布が推進されないとか、幸福な人生を築くことができないと思うのは錯覚であり、大いなる誤りである。
 大聖人の仏法は道理である。それは、あたかも太陽が、嵐の日も、雪や雨の日も、曇りの日であっても、決して自らの軌道をくずすことなく運行し、生きとし生けるものすべてに慈光を与えていくようなものである。
 頭がずば抜けてよい。記憶力がよい。知識もすぐれている。社会的にも大変な力をもっている、といっても、それは即信心の強さではない。成仏を決める力でもない。たとえ、そうした力はなくてもよい。地道に、愚直に、大聖人の教え通りに、自行化他にわたり仏道修行に励み、広布の道を進んでいくことが大事なのである。その人こそ、仏法の真実の実践者である。必ず最後には、幸福の栄冠を勝ちとっていける人なのである。
 あたかも「利根」と「通力」にすぐれたような姿をして、さも自分が素晴らしい力をもっている、何でも知っているという人ほど退転していくことが多いものである。
 「顕益」もあるが、末法の功徳は「冥益」にある。
 あたかも、草木が風雪に耐え、時がくれば爛漫らんまんと花を咲かしていくようなものである。それまでは、土中に深く根を張り、養分をたくわえ、休みなく自分を育てながら時を待つ。その絶え間ない生育への営みがあってこそ、桜も、春がめぐりくるたびに、美しい花を咲かせていくことができる。短時間の努力で、幸福を得られるものではない。
 信心も同じである。日々、繰り返し、繰り返し、忍耐強い仏道修行があってこそ、永遠に崩れることのない幸福境涯が築かれていくのである。一時の見えや、自分の特別の力を誇示した、はかない信心の姿、人生の生き方であってはならないと申し上げておきたい。
3  世界に平和社会実現のために
 「立正安国」は重書中の重書である。大聖人の仏法は、安国論に始まり、安国論に終わるとさえいわれる。それを浅学の学者や、増上慢から退転していった者たちが″立正安国論は、古い御抄である。現代には、もう通用する考え方ではない″といっていたが、これこそ僻見びゃっけんである。世界の現状を見るにつけても、「立正安国論」の深き意義がますます実感されてならない。
 時代と社会は一見、進歩・発展の姿を見せているように思えるかもしれない。しかし、根本的には、完全に「三災七難」を免れている国はない。要するに「安国」の姿を示している国家は、一国としてない。
 そうした現実に対し、人類の不幸の根本的な原因を明かし、絶対的幸福への確かな道を説かれたのが「立正安国論」なのである。ゆえに、混乱の様相を増す今日、その重要性は、一段と高まっていくにちがいない。

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