Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「3.16」記念各部代表者勤行会 ″後悔″から″歓喜″の人生へ

1987.3.14 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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1  一生成仏が信心の目的
 きょうは、3・16「広宣流布記念の日」を祝しての集いである。心から、おめでとう、と祝福申し上げたい。
 二十九年前のこの日、青年部六千人が広布の記念式典に参加した。その六千人が、いうなれば、今日の創価学会の土台を築き、広宣の沃野(よくや)を広げゆく組織の柱となってきた。
 ある人は″まことに、不思議なる方々である。この方々が総本山の厳粛なる式典に列席されなかったならば、今日の広布の発展はなかったかもしれない。この一人一人こそ、まことの地涌の使命の方々である″と、話していた。
 その六千人のなかからは、長い年月を経て、何人かの方々は、亡くなられた。また、何人かの人々は、退転した。しかし、大多数の方々は、今なお、広宣流布の組織の第一線で立派な指導者となり、妙法流布の指揮をとっておられる。私も、まことに不思議な方々であると申し上げたい。
2  ″生涯不退″の信心の大切さについて、少々申し上げたい。
 釈尊の爾前の仏法では、成仏のために「歴劫修行」が必要である。また、「行布を存するが故にお未だ権を開せず」と仰せのように、十界の間には差別があり、成仏への道は、複雑にして難解である。
 それに対して、大聖人の仏法では、「一生成仏」と説く。その修行は、三大秘法総在の御本尊に、信行の唱題をしていくことに結論される。まことに簡潔なる修行である。もったいなくも、御本尊を機械という次元でたとえるならば、精妙・緻密にして無限の力を備えた最極の機械なのである。
3  しかし、「一生」は、短いようで、長い。たとえば、広布の記念式典に参加した六千人のなかには、三十年をへずして、退転した人がいる。しかし、それでは「一生成仏」とはならない。十年間、信心しても、十一年目に退転している人もいる。五十年間、信心しても、五十一年目に退転していく人もいるかもしれない。
 退転へといざなう原因や環境も様々である。社会的な地位に恵まれたがゆえに、破仏法への道を歩み始める人もいる。ともあれ、「一生成仏」といっても、それを達成することは、決して容易なことではない。どうか皆さま方は、一生成仏の完結の日まで絶対に退転してはならないということを、銘記していただきたい。

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