Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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人生・社会について  

「希望対話」(池田大作全集第65巻)

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1  問1 大きな宇宙の中で人間はどんな存在か
 宇宙は限りなく大きいのに、それに対して人間の存在はあまりにも小さいと思います。人間一人の存在は、この大きな宇宙の中でどのような意味をもっているのでしょうか。
 私もあなたぐらいの年齢のころ、夜、中天に輝く星の瞬きを見つめては、宇宙の悠久、雄大さに思いをはせ、また、それに比べて人間の一生が何とはかないものかと考えたりしました。ちょうど、軍国主義が盛んになり、自分もやがては戦争に行かなければならないことなどを思うと、人間とは何か、生命とは何かということに、思いをいたさざるをえなかったのです。
 ところで、この地球上のすべての生物のうち、宇宙のこと、生命のこと、みずからの存在の意義などを考えることができるのは、人間だけです。他の生物と同じように、大宇宙に比べればほんの取るにたりない存在でありながら、その人間が考えることのできる範囲は、時間的には永遠の長さ、空間的には無限の広さに及びます。
 これは、当たり前のことのようですが、大切な意味をもっています。つまり、宇宙の真実、自分の存在意義を知ることによって、人はいくらでもその人生を大きなものにすることができるのです。何も考えないで一生を終わる人に比べると、それらを知った人の一生は、計り知れないほど価値あるものといえましょう。
 フランスの大哲学者であるパスカルも、あなたと同じような問題に真剣に取り組んだ結果「人間は考える葦である」という結論にいたりました。人間は、大宇宙からみれば、塵のような、というよりほとんどゼロに近い大きさです。が、原子、素粒子、さらにそれを構成している最も小さな単位の物質に比べれば、無限大の大きさをもっています。悠久の大宇宙に比較すれば、人間の一生はほんの一瞬のように思えるかもしれないが、素粒子の一生からみれば、永遠といってもよい長さです。
 パスカルは、大宇宙の巨大な力からみれば、たしかに人間は川の流れに漂っている葦のように弱々しい存在ではあるが、その葦は「考えることのできる」葦だといって、人間存在の意義を強調したのです。
 こうしたパスカルの考え方は、うなずけるところが少なくありません。しかし、私なりの考えをいえば、人間は決して葦のごとき弱々しい存在ではないと思うのです。
 インドの哲人は、大宇宙も、私たち人間も、その根本をつきつめていけば、ともに同じ地点に到達すると考えました。つまり、結論の要点だけをいえば、大宇宙の運行、律動も、人間の生命も、ともに同じ一つの根本法則を基盤にしたものであるというのです。したがって、大宇宙といえども、本質的には一個の人間の生命に刻みこまれていると考えられるし、さらに、その生命は永遠に連続するものであり、宇宙の存在とともに無窮であると考えたのです。
 これは哲学上の大問題であり、ここで詳しくは説明できませんが、要するに大宇宙は、人間の生命と対立した別々のものではなく、まったく同じ基盤のうえに存在しているということです。
 大宇宙を川、人間をそのなかの葦というように、別々のものと考えるとき、川は恐ろしく強い流れと映るでしょう。そうではなく、人間もまた、その川の中の一つの流れであるというのが、インドの先哲の考えだったのです。
 一滴の海水といえども、大海の成分をすべて含んでいます。また、大海の中にいくらでも広がっていくことができる。と同じように、小さな人間も大宇宙と同じ働きを内に備えているのです。いわば、小さな一個の生命は、大宇宙を包みこむほどの雄大な存在でもあるのです。
 話が少し観念的になってしまったかもしれませんが、こうした力強い自己を発見し、どう開発していくか――そこに自己の存在の意義があるといえるのではないでしょうか。自己の存在意義とは、いいかえれば、自己をどう開発するかの意義であるといってもよいと思うのです。
 悠久の大宇宙の中に生きる自己の無限の可能性を確信して、たゆまず自己を開発していく。それこそ、人間の存在を無限に開く、最も意義ある人生といえましょう。
2  問2 花にも生命はあるのか
 「花には生命がない」という友だちがいますが、私は花にも生命はあると思います。でも、生命とは何かといわれると、はっきりしません。花の生命について教えてください。
 生命という言葉ほど、私たちに最も身近なものでありながら、あいまいな言葉はないかもしれません。あなたの質問も、おそらく、友だちのいう生命と、あなたの考えている生命との意味が違っていたために、そのような食い違いができたのでしょう。
 一般に、生物学的には、動物、植物を含めて生命をもっていると考えていますから、その意味では、あなたの言うように、花にも生命が存在するといえます。ただ、動物は自分の意思で動くことができますが、植物はできません。
 その違いをわかりやすく説明するために、便宜的に、植物には生命はないと表現する場合がありますから、その友だちはそういう意味で言ったのでしょう。ですから、あなたの考えのほうが正しいのです。
 では、生命とは何かということについて説明しましょう。ただし、私は生物学の専門家ではありませんから、ごく常識的に考えてみることにします。
 まず、人間を含めて、動物は自分の意思に従って行動できますが、下等な動物、たとえばアメーバなどになると、植物とほとんど変わらなくなります。それでも、植物はまだ、呼吸したり、生長、繁殖しますから、今、述べたように、生命をもっていると考えられる。ところが、もっと下等な生物になると、生物か無生物かわからないようなものさえあるのです。あるときは細菌の働きをしながら、あるときは鉱物のようになってしまうものもあります。
 また、人間や動物の体を分析していくと、最後には分子や原子になってしまいます。ですから、人間といっても、分子や原子の組み合わせが違うだけで、他の植物や無生物と本質的には違うことはないともいえます。
 それから、人間が生命を維持するための食べ物は動物や植物ですが、その動物も植物を食べているのですから、結局、人間の食べ物は植物であるといってもよいことになります。ところがその植物はといえば、空気、水、太陽のエネルギーなどを摂取して生長します。また動物の死骸が分解されて植物の栄養源になることは、あなたも知っているでしょう。
 そうしてみると、生物と無生物といっても、厳密に分けることはむずかしいといえるし、人間、動物、植物、無生物は、お互いに交流しながら、もちつもたれつの関係で助けあっているといえます。
 少しむずかしくなりましたが、このように自然界をじっくり観察してみると、宇宙に存在するどんなものでも、本質的には差別はないように思えます。
 私は、このようなことから、すべてのものに生命はあると考えたいのです。初めは無生物の世界であった地球から生物が誕生し、徐々に進化して、現在のような種々の動植物がみられるようになったことを思えば、何十億年もの昔、まだたんなる天体にすぎなかった地球も、じつは巨大な生命体であり、動物や植物など次々と生命を生みだしていく基盤をはらんでいたと考えられないでしょうか。いや、その地球を生んだ宇宙自体が、もし条件さえそろえば、どこにでも生命を生みだしていく、雄大な生命体であると私は思うのです。
 ここでいう生命とは、人間や動物のような生きものという意味ではありません。そうした主動の生命を生みだす素地を秘めた一定のリズムということです。自然や草木のように、たんなる無機物や、自分の意思で動くことのできないものであっても、条件さえととのえば、みずから発動する生命を形成する可能性を内に秘めている。
 これを私は「生命が内に眠っている状態」と呼びたいのです。眠っている生命、現在目をさましている生命という違いはあっても、大宇宙のあらゆる存在が生命体であり、私たち人間と同じ仲間だと考えれば、この宇宙は、じつに壮大なドラマではありませんか。
 ですから、生命とは地球だけに限られたものではなく、適当な環境のもとでは、宇宙のどこにでもあらわれる、またあらわれていると考えられます。事実、こうした考えは、ほとんどの科学者が肯定しているのです。
 花に生命があるかどうかという問題から、ずいぶん大きなところまで話が広がってしまいましたが、私は生命をこのように広くとらえていくことにより、すべての自然、草木を人間と同じ生命体として、把握することができ、さらに生命がいかに尊く、不思議なものであるかを知ることができると思うのです。そして、そこから、より深い人間自身の本質への洞察の眼も開けてくることでしょう。
3  問3 死後、人間はどうなるの?
 人間は必ずいつかは死にます。人間は死んだあとどうなるのでしょうか。
 これは難問中の難問です。これがわからないところに、人間のいろいろな苦悩があるといってもよいほどです。
 では、人間は死んだあとどうなるのか。肉体的には焼かれてしまえば灰になり、煙になって、大地や大気にとけ込んでしまいます。意識や記憶、思考といつた精神的なものも消え去ってしまいます。とすると、死んでしまえば、すべてが無に帰してしまうのでしょうか。
 現在は、そうした考えが一般的のようですが、もし、死が人間のまったくの終着点であるとすれば、さまざまな不合理が生じてきます。まず、死んでしまえば終わりなら、なにもこの世で苦労する必要はないし、楽しくおもしろく暮らせばよいわけです。真面目にコツコツと努力することがバカらしく思え、正直な人が損をすることになります。現代の風潮は多分にそうした考え方が支配的ですが、それは、このような死に対する考え方が少なからず影響を与えているように思えるのです。
 さらに不思議なのは、人間は生まれながらにして、さまざまな差別があるということです。生まれつき丈夫な人もいれば、障がいをもって生まれる人もいる。裕福な家に生まれる人もいれば、貧乏な家に生まれる人もいる。こうした差別はどうして起こるのでしょうか。そういう両親のもとに生まれたのだからしかたがないといっても、それでは、その生まれた赤ちゃんが、どうしてその家に生まれなければならなかったのかという説明にはなりません。
 そう考えると、死んでしまえば終わりであるという考え方に欠陥があるのではないかという疑問が起きてきます。
 これに対して、インドで生まれ、日本で完成をみた仏教では、たしかに死によって肉体や精神は滅びるが、人間の生命自体は永遠に連続しているのであり、死は決して終着点を意味していないと説いています。
 これは難解な哲学で、簡単には理解できないと思いますが、たとえば、水の一生を考えればわかりやすいでしょう。
 雨が降ると、その雨水は川に流れこみます。初めは小川だったのが大河になり、やがて海に注ぎこむ。この動きはだれにでもわかります。雨として地上に落ちてきた同じ水が海の水になるのです。ところが、海の水が蒸発して大気中の水蒸気になり、それが冷えて、ふたたび雨となって降ってくることは、見ただけではわからない。私たちがそれを知っているのは、科学的な知識として学んでいるからです。
 この水の循環を人間の一生にたとえてみれば、一応、雨水となって地上に降ってくるときが誕生であり、海水になって蒸発するときが死といえましょう。しかし、見た目にはそうであっても、実際は、決してそれで終わりではなく、絶えず循環しているわけです。
 また雨水も、川の水も海水も、たとえ氷になり水蒸気になってもH2Oという本質は一貫しています。姿形はどう変わっても、水の本質は変わらない。
 人間の場合も同じです。生きているといっても、一瞬一瞬、新陳代謝して変化しています。幼児期、青年期、老年期と経ていくうちに、同じ人間であっても、肉体的にはまったくといってよいほど変わっていく。
 精神的にも同様で、ものの考え方などまるで違っていくし、その時その時で変化している。ちょうど雨水が川となり、海に注ぐようなものです。
 それなのに、Aという人間が、どのようなときでもAであるといえるのは、Aの本質、つまりAの生命が一貫して変わらないからなのです。それは、水のH2Oという本質が一貫していることにたとえられるでしょう。
 では、死の場合はどうか。肉体や精神は滅んでも、生命という本質は大宇宙に厳然と存在している、と仏教では考えます。水蒸気になっても、H2Oという本質は変わらないのです。それが、ある縁によって、ふたたび人間として生まれてくる。水蒸気が冷えてふたたび雨水となって降ってくるわけです。
 これと似たようなことを、先年懇談た、汎ヨーロツパ運動で有名な故クーデンホーフ=カレルギー博士も述べていました。西洋流の考え方でいえば、人生は一冊の本にたとえられる。読み終えてしまえば、それで終わりである。しかし東洋人は、人生は一冊の本の中の一ページだと考えている。つまり、そのページを読み終えても、次にまた新たなページがあらわれてくる、というのが博士のだいたいの説でした。(『文明・西と東』参照。本全集第102巻収録)
 ですから、次の生は、現在の生の続きなのです。したがって、よいことをして人生を終えた人と、殺人などの罪をおかした人とでは、次の生において、その違いは、はっきりあらわれます。ちょうど、将棋を途中まで指しかけたところで駒を箱の中にしまい、次の日にまた始めるときは、指しかけたところまで並べてから、前の続きを始めるようなものです。前の日に失敗した人は、不利な状態から始めなければならないのです。生命とは、こういうものだと考察したほうが、人間の生まれながらの差別の問題などがすっきり説明され、一貫性があるのではないでしょうか。
 そういうわけで、死は決して終着点でないどころか、次の生の出発点であると私は考えています。人間はこの世限りであると考えて刹那主義で過ごす人生より、こうした死生観をもつことにより、現在の人生を、もっと建設的に、有意義に、はつらつと送ることができるのではないか――私はこう主張したいのです。

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