Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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家庭について  

「希望対話」(池田大作全集第65巻)

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1  問1 両親と話しづらくなってきた
 最近、何となく両親と話しづらくなりました。今まではいろいろなことを話していたのですが、両親から学校のことなどを聞かれるのがいやになってきたのです。
 私も、小学生のころは学校であったことを残らず報告してくれたのに、中学生になると何も教えてくれなくなった、という父母の話をしばしば聞きます。君たちの年ごろになると、だんだん話しあいを避ける傾向が強くなるようです。
 それは、親鳥の翼の下で温かく育てられてきたひな鳥も、時がくれば巣立っていくように、両親の保護から独立しようとする自立心が芽ばえてきたためです。君は、ちょうど今、その時期にあたっているわけですが、そうなると、これまで住み心地のよかった翼の下が、何か束縛のように感じられ、両親と話をすること自体、わずらわしく思われてくるわけです。
 ですから、君が悪いのでもなく、両親に責任があるわけでもない。いわば成長の過程における当然の現象であり、大人へと脱皮する一つの試練といえましょう。
 しかし、中学時代は、何といっても身心ともに不安定な時期です。未来への無限の可能性を秘めているとともに、それが悪の方向に進めば、取り返しのつかない失敗をおかさないともかぎらない。そうした時期にあるとき、ものごとをすべて自分一人で判断したり、自分の考えだけで行動することは、非常な危険がともないます。
 では、相談すべき、君のことを最も愛し、心配してくれる人はだれか。他のだれよりも、それは両親です。そこに両親から自立しようとしてもしきれない、また、むやみに離れてはならない理由があります。
 君たちの心理として、両親というと、何か口うるさい、やっかいな存在のように思い始める気持ちもわかります。
 話したくないのなら、無理に話をしなさいというわけではありませんが、そうした自分というものをまっすぐ見つめれば、どんどんアドバイスを受けるようにしたほうが、君自身のためにもプラスになるはずです。
 次に、両親の立場に立ってみれば、自分の子どもはどんな子どもでもかわいくてしかたがないものなのです。それは、君がやがて結婚し、子どもの親にならなければ理解できない心情でしょうが、君の両親もきっと同じ気持ちであるにちがいありません。
 その親の気持ちを考えることができない君だとは思いません。自分の自立性、自由を要求するだけでは、幼児のわがままと、何ら変わるところはない。自分の権利を主張するなら、当然、他の人の心情もくむのが、一人前の人間としてのルールです。
 そうしてみると、自分が話したくないのだから、何を聞かれてもあまり返事をしないという君の態度が、ずいぶん身勝手なものであることがわかると思うのです。たとえ、話をしたくないときでも、学校のことや友だちのことを報告し、対話の場をつくることは、両親の人格を認めることであり、それで初めて、君のほうからも人格の尊重を主張できるのです。
2  問2 親の言うことには従わなければいけないのか
 私たちは今、反抗期だと言われます。母からも、最近口答えが多くなったと注意されますが、自分ではべつに反抗しているわけではなく、私のほうが正しいと思うのです。親の言うことには、どんなことでも従うべきなのでしょうか。
 これは、むずかしい問題ですね。考え方の基準だけは述べておきますから、個々のケースについては、あなた自身で考えてみてください。
 お父さんお母さん方のなかには、親の言うことに子どもは何でも従わなくてはならないという考え方をしている人が、時々いますが、それは大きな考え違いです。子どもだといっても、親と同じように一個の人格であり、まして中学生ともなれば、ものごとの判断力もかなりついてくるのですから、一方的に親の意見を押しつけることがよいか、悪いか、言うまでもないでしょう。
 これは親の側の問題で、あなたには関係のないことですが、要するに、親の意見だから従わなくてはならないということはない、と私は思うのです。
 聞くべき意見かどうかの判断の基準は、その意見がだれのものかということではありません。大事なのは内容であり、正論であれば、たとえ目下の人の意見であっても、襟を正して聞くべきです。そして、たとえ目上の人の意見であっても、それが間違っていれば、堂々と自分の意見を主張するのが、正しいあり方といえましょう。
 ただし、「友情について」の章(問3)でも述べたように、自分の意見を主張するときは、同時に他の人の意見も尊重するのが、人間としてのルールです。したがって、自分が正しいと思うから反抗するといっても、それがわがままな心からであったり、身勝手からのものであってはならないわけです。自由な意見の主張という美名のもとに、そこのところを間違えてしまうと″口答え″になってしまいます。
 そうしたことのほかに、相手が両親となると、また別の問題があります。というのは、お父さんお母さん方は、あなたより、はるかに人生の先輩です。さまざまな経験をしています。ちょうど、あなたと同じような年代のときもあったわけですし、あなたのまだ知らない人生も知っているわけです。そして何よりも、最もあなたのことを知っていて、その将来を考えてくれているのも、ほかならぬ両親です。
 そうした両親の言葉というものは、必ず傾聴に値する何かを含んでいるはずです。反抗期にあるあなたにとっては、何か古くさく、あるいは押しつけがましく思える場合があるかもしれません。親の権威を振りまわしているように感じられるときがあるかもしれない。しかし、自分のことを最も思ってくれる人生の大先輩の言葉であると思えば、それに対してすぐ反発するのでなく、そのまえに、一度はその意味を考えてみる必要があるのではないでしょうか。
 あなたも聞いたことがある話だと思いますが――近江聖人といわれた中江藤樹が十三歳になろうという時、修行の途中で家に帰ってきたことがありました。厳寒のなか、母が手足のあかぎれで水仕事に苦労していることを知って、いてもたってもいられず、薬を手に入れると、百里の雪道をたった一人で戻ってきたのでした。藤樹が家に着いたとき、母は井戸で水を汲んでいるところでした。寒風にさらされ、足のあかぎれが痛そうです。
 「お母様、水は私が汲みますよ。家の中にお入りください」
 藤樹の姿に、母は驚きました。そして藤樹の差し出す薬に涙がこばれそうになりました。しかし母は、すぐ厳しい表情になって、藤樹を叱りつけたのでした。
 「おまえは、母の言葉を忘れましたか。一人前になるまでは決して帰ってくるなと、あれほど言い聞かせたではありませんか。それなのに、途中で帰ってきて、手助けしてくれても、母はうれしくありません。このまますぐに帰りなさい」
 母の言葉に深くうなずき、あかぎれの薬を差し出す藤樹。涙をこらえ、せめて旅の助けにと、そっとお金を渡そうとする母。しかし藤樹は、これを断り、一歩も家の中に入ることなく、そのまま今きた雪道を引き返ししたのでした。(村井弦斎「近江聖人」、『明治文学全集』95、筑摩書房、参照)――この話の真偽はともかく、ふつうであれば「自分の心も知らないで」と、母に反抗するところではないでしょうか。理屈からいえば、藤樹の行動は決して間違っているとはいえないし、母の言葉のほうが、むしろ無理のように思えます。しかし、中江藤樹の成長が、この母の一言によってあったことを思えば、母も偉かったし、母の言葉どおり、そのまま帰って修行に励んだ藤樹も偉かったといえましょう。
 当時と現代とは時代が違います。これは、古い時代の臭みのある、道徳めいた物語かもしれません。しかし、親の言葉のなかには、たとえそのときは納得できなくても、あとになってみれば、″なるほど″というものがあるということだけは、知っておいてほしいのです。
 反抗できるというのは、まだ甘えている証拠でもあります。甘えているからこそ、好きなことが、言えるのではないでしょうか。そのへんのあなたの気持ちはどうなのかという点も、よく考えてみてください。
3  問3 父親を尊敬できない
 私の父は、お酒を飲むと人が変わったようになります。ふだんはとてもよい父なのですが、そうした姿を見ると、とても尊敬できません。私の父に対する気持ちは間違っているのでしょうか。
 親子の関係は、不思議といえば不思議なものです。自分は生まれたくて生まれたのではないといってみても、今この世に存在しているという事実は、どうしようもない。今の両親のもとに生まれたくなかったといっても、その現実を覆すことはできないわけです。
 こうした問題は、たしかに謎であり、その謎を知りたいとは、だれもが思うことでしょう。しかし私は、ここでは、あなたがお父さんお母さんの子どもであるという現実に注目したい。というのは、その事実こそが、非常に大事な意味を含んでいるからです。
 つまり、人間の生命ほど尊貴なものはないということです。法律でも、人の生命を奪う殺人は、最も重い罪とされていますが、生命の尊厳はもっともっと深いものであり、どのように表現しても、表現しきれるものではありません。私の尊敬しているある哲人が「全宇宙の財宝を全部集めたとしても、一人の人間の生命の尊さには及ばない」と説いていますが、私もそう確信してやみません。
 また、あなたがたも、永遠に崩れない世界平和を築いていくために、その原点として、生命に絶対の価値を置く、この尊い精神だけは、生涯たもち続けてほしいというのが私の願いです。
 ところで、あなたもまた、その尊い生命の持ち主です。そして、自分では生まれようとしてもできないのが、両親がいたからこそ、この世に生を受けることができたのです。
 そう考えたとき、両親に対する気持ちはどうでなければならないか、言うまでもないでしょう。両親といっても、なま身の人間である以上、欠点はあります。いや、探れば欠点だらけといってよいかもしれない。しかし、それはそれとして、あなたの生命をこの世にもたらしたという一点を考えただけでも、やはり感謝し、それなりに尊敬していかなければならないと言いたいのです。
 お酒を飲むという点については、お父さんのささやかな楽しみとして、温かい目で見てあげたらどうでしょうか。現実の社会は、とても厳しいものです。少しの油断も許されません。そのなかでお父さんは、毎日毎日、朝から晩まで神経をすり減らす思いで働いているのです。それも全部、家族のためであり、なかでも子どもを育てるためです。
 そのお父さんが、ほっと一息つけるところは、家庭しかありません。一日中働いてクタクタに疲れて帰ってくる。そうしたときぐらい、好きなことをやらせてあげてもよいのではないでしょうか。もし、そのささやかな楽しみすら奪ってしまうとすれば、それは、お父さんをあなた方の奴隷にするに等しいと思うのです。
 たしかに、お酒を飲むと人が変わったようになる人がいます。でも、もともと酒とはそういうものなのですから、驚くことはありません。まして、その姿によって、ふだんのときのお父さんまで軽蔑してはなりません。酔いがまわっているのですから「ああ、いい気持ちになっているのだな」と思っていればよいのです。
 ただ、酔って乱暴したりするクセのあるお父さんだったら、お酒を飲んでいない、きげんのよいときに、ごく控え目に、あまり飲まないように頼んでみたらどうでしょうか。
 あなたの、子どもとしてのふだんの態度が立派であれば、きっとあなたの頼みを聞いてくれることでしよう。

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