Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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勉学・読書について  

「希望対話」(池田大作全集第65巻)

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1  問1 学校の勉強は試験のためとしか思えない
 中学時代はしっかり勉強することが最も大切だといわれます。しかし、今の勉強は、試験のための勉強にしかすぎないように思えるのです。
 何のために勉強するのか――いろいろ理由はあげられますが、一言でいえば、人間らしい人間として成長するためだといえましょう。
 国語や英語はそのまま社会生活に役立つものですし、数学など、直接には人生に関係なく思えるような科目でも、筋道だったものの考え方を養ううえで大切な勉強です。
 ですから、試験のための勉強では決してないし、また絶対にそうであってはならないと私は思います。
 しかし、現実は、残念ながら、君の言うように、試験のために勉強するような形になっている傾向が強いようです。よい会社に就職するために一流大学へ行き、一流大学に進学するためには一流高校ヘ行かなければならず、そして一流高校に進むために試験でよい成績をとる。――まるで、そのための勉強であるかのようになっているのは否定できません。
 だからといって、社会が悪いんだ、教育制度が悪いんだといって勉強しないのは、考え違いというものです。こうした社会を変えていくのが君たちの役目であり、それをなしとげるためには、やはり、今、しっかり勉強して力をつけておかなければならないからです。
 これは勉強以外の問題にも通じることですが、ただ、社会が悪い、だから自分はこうなんだというのは、たんなる批判であり、言いわけにすぎません。
 そういう社会をよくするために、今、自分は何をなすべきかを考え、それを着実に実行するのが、未来を見つめた少年らしい生き方ではないでしょうか。
 考えてみれば、人間とは怠惰なもので、試験があるからこそ勉強もするし、励みにもなるわけです。私はなにも試験制度を全面的に肯定するのではありませんが、もし試験がなかったら、大部分の人はあまり勉強しなくなってしまうでしょう。そうなれば、そのときは試験がなくてよいように思っても、将来に大きな悔いを残すことになってしまいます。結局、試験のために勉強するように一応は思えても、じつは自分自身のためなのです。
 そこで言いたいことは、試験に対する考え方を転換することです。試験のために勉強する、つまり試験を勉強の目的と考えるのではなく、勉強するための励みとして、言いかえれば手段として考えるのです。
 ですから、そのために勉強が進むならば、試験のための勉強であってもよいと思います。スポーツをテーマにした小説などに、監督の鍛え方が厳しくて、最初のうちは叱られるのを恐れるあまり練習に励んでいても、成長したあとで振り返ってみれば、厳しく鍛えてくれた監督に感謝するという話がよく出てきます。
 それと同じように、試験が目標のようであっても、それを一つ一つ乗り越えていくところに学力の増進もあり、さらには自分自身の大きな成長もあるのです。
2  問2 落ち着いて勉強に専念できる環境ではない
 勉強をしようと思っても、家が狭く、勉強部屋もありません。また、きょうだいも多くて騒がしいので、落ち着いて勉強に専念できません。どうしたらよいでしようか。
 君のような悩みをもっている人はたくさんいると思います。自分の部屋があって、悠々と落ち着いて勉強できる人はごくわずかでしょうし、多かれ少なかれ、ほとんどの人が同じような問題に直面していることでしょう。
 ところで、勉強とは、自分自身との戦いです。たとえ、立派な勉強部屋があり、ほしいだけの参考書が手に入り、優秀な家庭教師がついていたとしても、肝心の当人が真剣に勉強しなければ、何の役にも立ちません。
 たしかに、環境が整っていれば勉強しやすいかもしれない。しかし、それは、より勉強がしやすいという条件にすぎないのであって、それ以上のものではないのです。そうした条件に恵まれた人がはたして一生懸命勉強しているか、成績がよいかというと、決してそうとはいえません。君の友だちのなかにも、悪条件のなかでがんばり、見事な成績をおさめている人がいるでしょう。結局、どれだけ勉強するかは、その人の勉強に対する意欲、取り組み方しだいなのです。
 本当に″しっかり勉強しよう″という心があれば、どんな環境でもできます。発明王といわれたエジソンが、青年のころ、列車の中で働きながら勉強した話は有名ですが、エジソンだけでなく、心から燃えあがる勉強への意欲があるならば、条件の悪さなど問題ではないのです。
 君にも経験があると思いますが、たとえばテレビや雑誌に夢中になっているとき、お母さんに呼ばれても気がつかないことがあるでしょう。ときには消防自動車のサイレンさえ耳に入らないこともあると思います。勉強の場合も同じです。真剣に机に向かっている時は、周囲が騒がしくとも、たいして気にならないものなのです。ですから、まず君自身の勉強に対する姿勢を確立することが根本だと思うのです。
 そのうえで、次に大事なのは創意工夫です。家が狭いなら狭いなりに、与えられた条件のもとで、どうしたら最も効果的に勉強ができるか考えてみるのです。
 たとえば、学校や地域の図書館を利用するのも一つの方法でしょうし、家庭で相談してテレビの時間を決めて、それ以外は勉強できるようにしてもらうのもよいでしょう。また、昼間は騒がしくてどうしてもできない場合は、夜間に勉強するようにしてもよいと思います。
 ともあれ、私は、少年時代には、むしろ困難ななかで大変な思いをしながら勉強したほうが、将来のためにはよいとさえ思っています。極端な言い方をすれば、そうした環境に感謝すべきだと思うのです。
 君たちの前途にはさまざまな困難が待ち受けています。嵐の日もあれば闇夜もある。自分の望む条件のもとでものごとができるのは、むしろまれといってよいでしょう。そのとき、人生の基盤をつくる今の時代に、恵まれた環境のなかでぬくぬくと育った人と、苦労し、自分の力で道を切り開いてきた人と、どちらが力強く生きぬくことができるでしょうか。
 今は、たしかに対変かもしれません。静かになちきいて勉強できたら、と思うかもしれない。しかし、悪条件のなかでやりぬいていくこと自体、将来の大成のための、堅固な基盤をつくっているのです。悪条件を嘆くのではなく、それを逆に、成長のための血肉としていく――そういうたくましい少年であることを願っています。
3  問3 どうすれば成績を上げられるか
 成績が悪いので悩んでいます。どうしたらよい成績をとることができるでしょうか。
 あなたの質問は、大学生から小学生まで、だれもが知りたいことでしょうが、結論的にいえば、コツコツ努力して積みあげる以外にないというのが私の考えです。
 なかには生まれつき自分は頭が悪いのではないかという人がいますが、人間の頭のよしあしは、それほど違うものではありません。
 戸田城聖先生は、教育者でもありましたが、よく、頭がよいとか悪いとかいっても、一本の線を引いて、その線の「上」と「下」ほどの違いしかないと言っていました。
 イギリスの哲学者ミルトンが「天才とは努力と勤勉の結果」と言い、フランスの博物学者ビュッフォンが「天才とは忍耐する素晴らしい能力」と言っているのも、そのことを示していると思います。
 そこで努力ということですが、プロ野球の選手を考えても、どんな優秀な打者でも練習を重ねなければよい打率を残すことはできません。では練習とは何かというと、バットを振ることに尽きます。バットを振るという簡単な、まったく基本的な動作を何回も何回も繰り返すことによって一流の打者になるわけです。ピッチャーも同じです。ボールを投げるというだれにでもできることを、毎日毎日続けて初めてエースになれるのです。
 私は、勉強も同じだと思います。机に向かって教科書を読み、ノートをとる――何の変化もない、むしろつまらないことかもしれない。しかし、つまらないからといってバッターがバットを振ることを怠り、ピッチャーが投球練習をいいかげんにしたらどうなるでしょうか。どんな強打者、エースでも、またたく間に成績が下がるにちがいありません。
 ですから、よい成績をとるためには、ふだんの勉強こそが大切なのです。予習、復習をきちんとやり、授業中は先生の話を真剣に聞く。すべてそれで決まってしまうといっても過言ではないでしょう。それを根気よくどこまで続けられるか、それが決め手です。
 そこで、今度は勉強法です。どういう参考書を使ったらよいか、どうノートをとったらよいかという問題になりますが、これは個人差があって、いちがいには言えません。ただ言えることは、いろいろと試行錯誤するなかで、最も自分にあった方法を自分が発見していく以外にないということです。一応の巧拙はあるでしょうが、最初のうちは友だちなどに教わるとしても、結局は、自分にピッタリした方法がいちばんよいのではないでしょうか。
 私なりにいえば、成績が悪い人は基礎がしっかりしていないことが多いようですから、あくまでも教科書を中心に、復習に力を入れたらどうかと思います。それも、今、学んでいるところだけでなく、一年生の最初の教科書から丹念に読み返してみるのです。そうすれば、すでに習ったはずなのに、理解しきれていないところが、きっと出てきます。
 どの点がわからないのか、それが発見できればシメたものです。あとは先生に聞くなくり、友だちに教わるなりして、自分のものにしていけばよいからです。
 どうがあせらず、着実に、努力を積み重ねていってください。

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