Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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性格について  

「希望対話」(池田大作全集第65巻)

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1  問1 神経質で、すぐに考え込んで自信を失ってしまう
 僕は神経質で、友だちなどに注意されると、たいしたことでもないのにすぐ考え込んで自信を失ってしまいます。もっと広い心をもつにはどうしたらよいでしょうか。
 神経質そのものは性格の特徴であって、よいとか悪いとかいうものではありません。細心の注意を払って正確な実験をしなければならない科学者などには、神経質な人のほうが向いているように、その特徴を生かせば、大きな美点になります。
 したがって、注意されたことをつきつめて考えること自体は、決して悪いことでもなく、悩む必要もないのです。それは君に自分自身を反省する謙虚な姿勢がある証拠であり、素直な性質のあらわれだと思うのです。
 それに対して、何事に関してもあまり注意を払わず、無頓着だというのは、心が広いのではありません。注意されても、そしてそれが正しい指摘であるにもかかわらず、自分を顧みない人は、無責任で、真剣さがないというべきです。
 しかし、注意されれば反省するといっても、ささいなことですぐクヨクヨするのは考えものです。反省とは本来、次への成長のためのものであるのに、それでは、かえって萎縮して、自分を後退させてしまいます。
 ですから、もっと自分に自信をもつことです。それには、これはこれ、あれはあれと割り切って考えるのです。人間に欠点があるのは当たり前なのですから、悪い点は悪いとしても、それで他のことにも自信を失うことは愚かです。
 たとえば、友だちに「君はよく遅刻するね」と言われたとします。そのとき、遅刻は悪いことですから反省するとしても、遅刻だけが君のすべてではないはずです。遅刻は遅刻、他のことは別問題だ、と考えるくらいでよいのです。それを他の自分の長所からマイナスして、だから自分はダメなんだと思うことはない。
 それは、言葉をかえていえば、受けた注意を前向きの姿勢で冷静に受けとめるということです。そうすれば、友だちの注意が的を射たものであるかどうかも判断できるし、本当に自分のためを思ってくれてのものか、それとも感情的なものや誤解によるものであるかもわかります。
 もし、そうしたものであれば、別に気にする必要もないわけですし、クヨクヨ考えこむこともない。つまり、前向きの姿勢で受けとめるならば、友だちの注意を自分の成長の糧にしていくことができるのです。
 心の大きな人とは、そうした人のことといえましょう。
 私の恩師である戸田城聖先生は、よく「聞き上手になりなさい」と言っていました。同じことを聞いても、それで自信を失って自分をダメにする人もいれば、発奮して成長のバネにする人もいる。私もたしかにそのとおりだと思います。その点、君の場合、ずいぶん、損をしているのではないでしょうか。
 欠点のない完全な人などいるはずがありません。まして、これから成長していく君たちなのですから、欠点が多くて当たり前なのです。今は何を注意されてもいい。一つずつ克服して、今に立派に成長するんだ、という気持ちで、伸び伸びと大らかに進んでいってください。
2  問2 消極的な自分を強くしたい
 思っていることをなかなかみんなの前で言うことができません。消極的な自分を何とか強くしたいと思うのですが、どうすれば積極的に発言できるようになるでしょうか。
 君たちの年代は自意識に目覚め、周囲を気にしだす年ごろですから、ほとんどの人が多少はそういった傾向にあるようです。しかし、だいたいは大人になっていくにつれて、言うべきことは、言えるようになっていくものであり、あまり心配する必要はないと思います。
 といっても、現実に困っている君にとっては答えにならないかもしれません。それで早くなおす方法はないかというと、やはり訓練しだいではないかと思います。早くいえば、慣れるということです。
 初めのうちは、思っていることの半分も言えたら大成功です。それぐらいの気持ちで、たとえ失敗しても、何回も何回も機会あるごとに挑戦するのです。初めから思っていることを全部スラスラ言える人はまれなのですから、失敗しても、何も恥ずかしいことではないのです。「失敗は成功のもと」です。
 失敗することが恥ではなく、むしろそれを恥と思う心こそ卑しむべきでしょう。
 そこで今度は、話をするときには、言うべきことをあらかじめ頭の中で整理し、順序を組み立ててから口を開くようにすることが大事です。慣れてくれば、一つのことを話しながら次の話を考えることもできるようになりますが、初めのうちは、言いたいことがノドまで出かかっているのに言葉にならない、ということがよくあるものです。簡単なメモを作って、それを見ながら話をしてもよいでしょう。
 それから、うまく話そうと思うとかえって失敗します。話をすることが苦手だという人の原因の一つは、自分は苦手だという意識から、何とかうまく話そうと考えすぎるあまり、かえって堅くなってしまうということにあるようです。そして、それが失敗に結びつき、失敗した結果、ますます自信をなくしてしまうという悪循環を繰り返す。ですから、うまく話そうとするのではなく、今、思っていることをそのまま伝えようと考えたほうがよいでしょう。そのほうが、比較的スムーズに言葉が出てくるものです。
 以上は方法の問題ですが、思っていることを言えないというのは、根本的にいえば、信念と勇気の問題です。
 つまり、これは言わなければならないと本気で思っているならば、本当に信念があるならば、自然に勇気がわいてくるものですし、発言しないではいられないはずです。
 たしかに、活発に発言できる人もいれば、あまり発言しない人もいます。一応、積極的な人、消極的な人と分けることができますが、それは表面的なものであり、またある程度、もって生まれた性格の違いであって、活発に発言する人が勇気もあり、信念もあるとはかぎらない。むしろ、ふだんはあまり発言しなくとも、言うべきときにきちんとした意見を言える人こそ、立派な人といえましょう。
 君は、自分が消極的だと決めつけているのではありませんか。信念をもち、言うべきことを言っていけるなら、もう消極的ではないのです。それはひかえ目な人というべきであり、人々を大きく包んでいくうえで非常に大切な長所といえるのです。
 話の上手な人のマネなどする必要はありません。ベラベラしゃべる人が雄弁ではないのです。話し方は上手でなくても、一つ一つの話がしっかりしている人こそ、真の雄弁の人といえるのです。君は君らしく、いったん口を開けば、だれもが傾聴せずにはいられない貴重な意見を主張する人であってください。
3  問3 短気ですぐにカツとなってしまう
 僕はどうも短気ですぐカッとなってしまいます。そしていつもあとで後悔するのです。こんな性格はどうすれば直すことができるでしょうか。
 性格というものは、根本的には変わらないものだと思います。というと、それでは短気は直らないのか、と言われそうですが――。
 そうではなく、性格には二面性があると思うのです。短気を例にとって考えると、短気自体はよい性格とはいえなくても、その反面、短気な人は決断力がある。行動がすばやいといった美点をもっているものです。いわば、ある性格があって、悪い面があらわれたときに短気といい、よい面があらわれた場合に決断力、行動力というのではないでしょうか。
 つまり、性格というのは川の流れのようなもので、川の幅は変わらないように、性格の本質自体は変わらない。が、川の流れにも清流と濁流がある。短気というのは濁流であって、それが清流になれば、決断力、行動力の美点が表にあらわれる――。それは、前の質問(「性格について」の章、問1、問2参昭)にあつた神経質や消極的という問題にもいえると思うのです。
 それでは短気という濁流はどうすれば清流に変えられるのか。自分の立場だけでなく、相手の立場に立ってものを考える習慣をつけることが、まず大事でしょう。なかなかむずかしいことですが、すぐカッとなるのは、ものごとを自分本位に考える人に多いようですから、意識して自分の心を抑えるようにすることです。
 よく、相手を非難する手紙は、書いてから一日置いてポストに入れるとよいといわれます。それは、そうした手紙は、おうおうにして感情に流されたものになりやすいため、冷静になってから読み直してみると、言いすぎた点があったりして、そのまま出すとかえって逆効果になるからです。
 これはむずかしい言葉でいえば理性ということですが、理性があるということが、人間と動物の大きな違いなのです。怒るべきときに怒るのは当然ですが、何かあるとすぐ怒るのでは、動物とあまり違いがなくなってしまいます。君も言っているように、結局はあとで後悔するのがオチなのです。
 そういう人は、たとえ正しい怒りであってもみんなの共感を呼ぶことはできません。感情的な怒りは、それが正義感に基づいたものであっても、第三者から見れば一人相撲をとっているように映るものです。「短気は損気」とも言われますが、まさしく大損であり、当然、みんなに応援してもらえることであっても、そっぽを向かれる結果になってしまいます。
 人間はたしかに感情の動物です。感情のない人などいるはずがないし、もしいるとすれば死んでいるのも同然といえましょう。
 また、大いなる感情は、大勢の人の心を動かします。正義感あふれる大演説が聴衆を覚醒させ、社会を改革した例は歴史上、数多くあります。
 ですから、感情というのは非常に大切ですし、決して悪いものではないのですが、むきだしの感情ではなく、理性に裏づけられた感情でなければならないのです。演説の例でいえば、胸の中に正義感をたぎらせつつも、それをどうみんなに訴えていくかといえば、そこに論理的、客観的な主張があって初めて聞く人の共鳴を得ることができるのです。それが理性であり、相手の身になって考えるということでもあります。
 人にはそれぞれ、さまざまな個性、意見があります。なかには、どうもハダがあわないという人もいるにちがいありません。しかし、だからといって、すぐカッとなっていたのでは、多数の人々によって成なり立っているこの社会で、生きていくことはできません。自分とは違う意見をもっている人の存在を認めてこそ、社会の一員としての資格があるのです。
 子どものころはどうしても自分本位になりがちであり、感情が先行します。しかし、君ももうすぐ大人になるのですから、理性で判断し、行動することを心がけていくべきだと思うのです。
 私は、理性が至上のものだというのではありません。理性を重んじすぎて、別の新しい弊害が起きていることも知っています。ただ、その問題は非常にむずかしくなるので、別の機会にお話しすることにして、理性の重要性を今は知ってほしいと思います。

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