Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

友情について  

「希望対話」(池田大作全集第65巻)

前後
1  問1 どうすれば親友をつくれるのか
 僕には親友がいません。同級生が仲良くグループを組んでいるのを見ると、うらやましくてしかたがありません。どうしたら親友をつくれるでしょうか。
 親友がいないのはさびしいことでしょう。友だちどうしがいつもいっしょに下校する。今度の休日にみんなでどこかへ出かける相談をしている。――そうした姿を見るとき、たしかにうらやましく感じ、一人でいる自分がたまらなくなってくることもあるでしょうが、決してあせる必要はないと思います。
 中学時代には親友と呼べる友だちがいなくても、高校や大学に進んでいくにつれて、あるいは社会人になってから、親友ができるという例が少なくないからです。また逆に、中学時代には親友がいたが、その後は心を許せる友だちができないという人もあるようです。
 よく、仲良くしたいために、友だちのあとを追いかける人がいますが、自分を偽って他の人に調子を合わせ、親友になろうという生き方には、私は反対です。たとえそれで友が得られたとしても、結局は表面的な交際にすぎず、心からの親友とはなれないものです。それどころか、自分自身を見失うことになって、何のための友だちか、わからなくなってしまいます。また、他の人に追従ばかりしているのでは、最後にはどの友からも信頼されず、心の中でバカにされかねない。それでは、せっかく友だちができたといっても、友情の名からは、ほど遠い、底の浅い交際しかできないことは目に見えています。
 ですから、親友を早くつくろうと思うことは、かえって危険性があると思います。足元をおろそかにして木の実を取ろうとすれば、本の根につまずいて思わぬケガをしないともかぎりません。今、最も大事なことは、まず自分を磨いて、彼のような人と親友になりたいといわれるような自己を確立することだと言いたいのです。
 それには、勉強の面でもよいし、クラブ活動でもよい。放課後の清掃とか、クラスメートに対するちょっとした思いやりなどの小さなことでもよい。だれにほめられなくとも、全力でことにあたり、自分のもっている美点を伸ばしていくことです。そうしたなかに、何ともいえない人間としての輝き、魅力がつちかわれ、あなたにふさわしい親友が、求めずともあらわれてくるものです。
 親友になるケースをみてみると、だいたい、どこかに共通点をもっている人どうしが親友になるようです。レベルの高いい人は高い人どうし、低い人は低い人どうしで親友としての交際が始まるものです。
 君が成長すれば、それなりの人を親友としてもつことができるでしょう。成長しなければ、そうした君に似合いの人としか親友になれません。
 人間形成の大事な時期である中学時代には、優れた親友をもつことが大切です。だからこそ、最高の親友を得るために、まず自分が成長するのです。
 「人はたいていの場合、真の友がだれかひとり見つからなかったことに対するなぐさめとして数人の友と交わるものである」(アベル・ボナール『友情論』大塚幸男訳、中央公論社)という言葉があります。また、「数多くの友だちをもつ者には、ひとりの友もない」(「エウデモス論理学」茂手木元蔵訳、『アリストテレス全集』14,岩波書店)と、ギリシャの哲学者アリストテレスは言っています。一人でもよい。自分にふさわしい、生涯の友が得られれば、その友情に勝るものはないと私は思うのです。
 ひまわりの花は、つねに太陽に顔を向け、太陽が移動すれば、その動きにつれて、同じように顔の向きを変えていくそうです。太陽は、ひまわりの花に調子を合わせるのではなく、厳然と光り輝いている。それでも、ひまわりはついてくるというのです。
 仲の良さそうな同級生の姿に、羨望を感じてばかりいるのは愚かです。今、あなたがめざすべきことは、ひまわりになることではなく、太陽のような存在になることではないでしょうか。
2  問2 友だちが急によそよそしくなった
 今まで仲の良かった友だちが、急によそよそしくなってしまいました。気を悪くさせた原因は、私のほうには、とくに思いあたらないのですが。
 何かあったとき、すぐ自分自身を反省してみるというあなたの姿勢は尊いと思います。あなたは、きっと心の美しい、思いやりのある人なのでしょう。
 ですから、自信をもって、ありのままの自分で進んでください。反省してみて、気のついた点があれば改めればよいし、思いあたる点がないのなら、あれこれ考えずに元気を出して自分の道を行くことです。
 あなたがたの年ごろは、肉体的にもそうですが、精神的にも急速に成長していくときです。ものの考え方も変わりやすい時代です。それは友情の場合にもあてはまります。
 今まではこの人以上の友だちはないと思っていたのが、いつのまにか違うタイプの友だちを求めるようになる、ということも珍しくないのです。また、心の動揺の激しいときですから、何でもないようなことや、うわさ、誤解などによって、いわば衝動的に絶交したりしてしまうこともあるのです。
 そういう時代なのですから、仲の良かった友だちが、よそよそしくなったといっても、あなたが悪いのでもなければ、友だちが悪いのでもない。むしろ、あなた方が、大人に向かって成長している証拠だと私は思います。
 およそ友だちというものは、多くの場合、永遠に変わらないものではありません。あなたも年々成長します。友だちも成長していきます。周囲の環境もどんどん変わっていく。とすれば、友だちも変わっていくのが当然でしょう。あなたも、幼児の時代、小学生の時代、中学生の時代と考えてみれば、同じ人とずっと友だちどうしでいたでしょうか。
 それは、これからも同じです。今後、何回もこうしたことを経験することでしょう。悲しい思い、さびしい思いをしたり、逆にさせたりもすることでしょう。しかし、だからといって、友情なんて、はかないものだと考えてはなりません。
 なぜなら、十代の友情は、お互いの人格を高めあうものであり、いろいろなタイプの友だちと交際していくことによって、しだいに人格が磨かれていくからです。特定の友との交際を幼いころからずっと続けていくという生き方は、すばらしいことのようにも思えますが、人間的な成長からみれば、かえって弊害があるともいえるのです。
 それとともに、友を失ったり、また新しい友ができたりという繰り返しのなかから、やがて本当に心と心の結ばれた美しい友情の花が開いていくということを知ってください。
 その意味で、今、あなたが悲しい思いをしていることは、とても大切な経験だと思います。やがて花開く美しい友情――その尊さは、こうした経験を重ね、試錬に耐えてこそ知ることができるからです。
 友を失うことのさびしさを知らない人には、本当の友情の温かみはわからない。今は、その本当の友情を最高に価値あるものにしていくための準備期間なのです。
 ただ、これからのためにも、親友だからといって、いつも自分に引きつけておこうとすれば、かえって息苦しくなって離れていこうとするものだということは知っておくべきでしょう。お互いに同じ自由な人間として、尊重しあっていく。一個の尊い人格として、個性を認めあっていく。そうしたところに、いつまでも、こわれない友情がはぐくまれていくのです。
 友情とは、決して二人が一つになることではない。二人が二人のままでいながら、そのふれあいを通してそれぞれが成長し、「一プラス一」が、三とも四ともなっていくものなのです。
3  問3 友だちと意見があわない
 友だちと意見があわないことがよくあります。自分ではなるべく協調していこうと思うのですが、うまくいきません。
 自分の意見を主張することは大切なことですし、自分というものに目覚めてくる中学生時代ともなれば当然といえます。むしろ、心では思っていても自分の意見を堂々と言えない人こそかわいそうな人であり、中学生らしくない人といえましょう。数にものわかりがよく、すぐ友だちの意見にあわせてしまうより、あなたはよほどしっかりした、主体性のある人だと思います。
 しかし、人間は社会的動物であり、社会生活を営まなければならない以上、そこにはおのずから一定のルールがあります。つまり、自分が主張する場合、その分だけ他の人の意見も聞かなければならない、ということです。そのルールが守られることによって社会生活が成り立つし、それが民主主義というものでもあるのです。
 また、どんなに優れた人であっても、その人の意見がすべて正しいということはありえない。反対意見があってこそ、自分の考えの片寄ったところ、独りよがりなところなど不完全さが発見でき、より正しい考えに到達することができるのです。ある場合には、自分の意見がまったくの誤りであったことに気づくことさえあるものです。
 どんな人の意見でも、聞くべき点は必ずあるはずです。お互いに自分の意見をいい、相手の意見を聞く――よりよい結論は、そうしたなかに生まれてきます。そのための討論、議論であり、意見の交換なのです。
 ですから、自分の意見の誤りに気づいたときには、即座に改めることが大事です。中国に「君子豹変」(『易経』)という言葉があります。立派な姿をしていながら、態度に一貫性がなくすぐ変わるという意味にとられていますが、真に立派な人は、正しい意見を知ったなら、すぐさま取り入れるというのが、本当の意味です。
 もちろん、こうした態度は一朝一夕に身につくものではない。それだけに、今のうちから心がけて、良識ある社会人として成長する基礎をつくってほしいと思うのです。
 ときどき、自分の意見はどこまでも主張するのだといって絶対に意見を曲げない人をみかけますが、そういう人は、社会生活を営む資格のない人であり、精神的赤ちゃんというべきでしょう。
 赤ちゃんの場合は周囲がみな、大人ですから、それでも通用しますが、同じ中学生どうしで、そうした生き方が許されるはずのないのは当然です。自分では主体性があるつもりでも、それは主体性でもなんでもなく、自己中心主義であり、わがままという以外にない。あなたは協調していこうとしているのですから、精神的赤ちゃんではないわけですが……。
 では協調とは何でしょうか。一言でいえば、譲るべき点は自分から譲っていくということだといえましょう。その節度のある人こそ、本当の意味で、主体性のある人といえるのです。それは、一見、弱い人のように見えるかもしれないが、決してそうではない。むしろ人間的大きさを示すものといえるのです。
 いくら正しい意見だといっても、つねに自分の主張だけを貫こうとすれば、人はなかなか聞くものではありません。いつも自分の意見ばかり押し通そうとする人と、ふだん、よく他の人の意見を聞く人とでは、どちらが本当に大事な時に説得力をもつことができるでしょうか。
 協調性があり、他の人の意見もよく聞く人こそ、いざというとき、本当に主張しぬきたい意見がみんなに聞き入れられるのです。
 それでは、主張を貫くべきことと、譲ってもよいことと、何を基準にして判断するかというと、これは大変むずかしい問題で、いちがいに断定することはできません。どう的確な判断をしていくかということは、じつは、人生を通じての課題でもあるからです。が、少なくとも、自分が相手の立場だったらどう思うだろうか、ということだけは、つねに考えるようにしてほしいと思うのです。
 今の年代は、いわばすべての面において試行錯誤の時代です。ときには意見が真っ向から対立してケンカになったり、ときには同調しすぎて、自分自身を見失ったりすることもあるでしょうが、一つ一つが将来のための勉強なのですから、失敗を恐れず進んでください。

1
1