Nichiren・Ikeda
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生きること 死ぬこと
「希望対話」(池田大作全集第65巻)
前後
1 ―― 関西に住む中学一年生なのですが、彼は、最近、「死ぬのが、ものすごくこわい」と言っています。
夜、床につくと、ふっと「もし、このまま目が覚めなかったら、どうしよう」と心配になったり、かと思うと、反対に「自分は何で生きているんだろう。毎日、食べては寝て、このまま、だらだら生きているだけなら、死んだってそんなに変わりないんじゃないか」と思ったり、「やっぱり家族が悲しむから、生きていかないと」と思ったり、揺れているようです。
池田 なるほど! 何か、きっかけがあったのかな?
―― いえ、聞いてみましたが、とくにそういうことではないようです。
また、女子にも、同じような子は、すごく多いのです。
「そんな『暗いこと』は考えまい、考えまい。もっと楽しい『前向きのこと』を考えよう」と思うのですが、ときどき、「百年後には、自分も、自分の家族も、友だちも、だれ一人、この世にいなくなるんだなあ」と思うと、ぞっとする、というのです。
池田 それは、すばらしいことだね!
死について考えるのは、「人間」である証拠です。考えなきゃいけない。うんと考えないといけない。
中学生くらいのときは一生懸命考えても、大人になると、忙しさにまぎれて、全然考えなくなる人が多いのです。
しかし、こんなおかしなことはない。なぜか。
2 「太陽も死もじっと見つめることはできない」
池田 人間、だれだって、未来の準備をしながら生きている。
年末が近づけば、お正月の準備をするし、試験が近づけば、試験の準備をする。中学三年生は、卒業後の準備を考えるし、旅行に行く前は、旅行の準備をする。
ところが、ほとんどの人が、「死」の準備はしない。
他の予定はどうなるかわからないが、「死」だけは確実だ。絶対に一〇〇パーセント、自分の上にやってくる。
それなのに、「死」をどう迎えるかということについては、何の準備もしないで、その日その日を、なりゆきで生きている人が多いのです。「太陽も死もじっと見つめることはできない」(『ラ・ロシュフコー箴言集』二宮フサ訳、岩波文庫)と言うが、死から目をそらして生きている。
―― たしかに、自分がまもなく死んでしまう病気になるとか、家族に何かあるとか、そういうことがないと、なかなか考えないと思います。
3 死の前では″裸の自分自身″が問われる
「人は、生まれながらの死刑囚」
池田 「人間は、だれでも生まれながらの死刑囚である」と言った人がいる。そのとおりです。「死刑」がいつ来るか、わからないだけです。まあ、わからないからこそ、のんきに生きていられるんだが。(笑い)
若いからといって、死が遠いとはかぎらない。今、健康だから、長生きするとはかぎらない。死は、五十年後かもしれないし、五十分後かもしれない。確実なのは、いつか必ず出あうということです。
だから、死について考えることが絶対に必要だし、「どう死ぬか」を学ぶことが、「どう生きるか」を学ぶことになる。これが本当は、いちばん「前向き」の生き方なんです。
では、「死の準備」とは何だろうか?
―― 関係ないかもしれませんが、最近、中学時代の友人がオートバイの事故で亡くなりました。彼は信心はしていませんでした。私は、一生懸命、追善のお題目を唱えました。友だちもみんな、突然の死を、どう受けとめていいのかわからなくて、ただただショックで泣いていました。本当に、死はいつ来るかわからないんだと実感しました。
だから、毎日、本当に「悔い」のないように生きていかないと、死ぬときに、「自分の一生って何だったの?」と、無念の思いで死んでいくことになる……そう思います。
よく「死の瞬間に、一生のことを走馬灯のように思い出す」と言いますから……。
池田 若い人は「走馬灯」なんて見たことないだろうから、「ビデオテープ」かな(笑い)。「ビデオの早送り」みたいに、生まれてからの出来事、考えたこと、言ったことが、ものすごい勢いで蘇ってくると言われている。