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日蓮大聖人・池田大作

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海外へ不二の旅  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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1  場をつつみ込み、和ませる微笑み
 松岡 海外への旅が多くなって、奥さまのご苦労も増していると思いますが、心がけておられることをお聞かせいただけませんか。
 夫人 外国では夫妻のほうが自然な場合がありますので、子どもが小さくて行けない時期もございましたが、最近は同行させていただいております。
 池田 「私は刺し身の″つま″よ」などと妻は笑っていますが、なにかと助かっています。
 世界の要人との会見や識者との対談は、先方もご夫妻の場合がほとんどですから……。近ごろでは、SGIの行事やメンバーの激励ばかりではなく、対外的な活動が多くなっておりますし。
 夫人 初期のころは同行の人も少なくて、すべて私がしました。ホテルに、さあ、着きました。鞄をほどきました。それで、主人を休ませねばなりません。ともかく、休んでいただいて、あのころだったから許されるでしょうが、私は、ホテルのバスルームでご飯を炊いたり、簡単なおかずを作ったり……。それが私の適役で、はまり役だったのですよ。
 佐々木 海外へ同行取材させていただきましたが、奥さまがいらっしゃるとその場の雰囲気が和むといいますか……。
 とくに旧ソ連を初めて訪ねたときなど、向こうはイデオロギーの国でしたから、先生の文化と平和と教育の人間外交に賛意を示しながらも、宗教観や歴史観などをめぐっては鋭く対立する議論もありました。
 しかし、奥さまのにこやかな微笑みが、その場を大きくっつみ込んで、双方がより深い理解へと進んだこともございました。
 夫人 主人は、ご承知のように、どこへ行っても開拓、開拓です。それも徹底しています。その分、相手の方には、どうしても強い印象をあたえるかもしれません。私がいることで和やかになり、心がより通いあうならうれしいですわ。
 池田 私の場合、体がもつかどうかが、いつも重要な戦いの側面だったのです。そうしたとき、やはり妻の助けは必要です。
 私が休んでからも、ホテルの一室のソファで、夜遅くまで、お題目を唱えてくれたことも知っています。
 夫人 私が申し上げるのもどうかと思うのですが、主人はフル回転で頭を使い続け、八方に気を配りますから、寝ているときしか主人の頭は休まっていません。だから、とにかく寝てもらうしかありません。目が覚めたら最後、あっちこっち……となりますでしょ。
 池田 性分、なんだね。性格だけは、一生変わらない、と言うじゃないか。
 でも、戸田先生は、すごい師匠でした。すべて訓練の賜物ですが、とにかく鋭かった。
 「弟子は師匠に隠し事をするな、知っていることは全部話しなさい」とね。でないと敵だ、とおっしゃるんだから……。
 緊張して、お仕えしました先生も、路傍の原石に等しい私を、磨きに磨いてくださった。
 「会員の方々に気を配り、皆が何を欲し、何を望んでいるかを知り、希望と勇気をあたえていかなければならない。会員のために働いてこそ学会の発展がある」と、指導者のあり方を徹底してたたき込まれました。
 夫人 若いころ、主人は「レントゲン」と言われました。真剣に相手の方のことを思うからでしょうけど、考えておられることがわかるというか、なんでもパッと見通すということなのでしょうか。
 「それに比べると、今はまだいいんだぞ」なんて、主人は言いますが。それくらい広布一筋の仕事人でしたので、こちらでできることは全部して、ともかく主人には主人でなければできないことをしていただこうと……。
 よく言うのですが、主人は兎で私は亀(笑い)……。いいえ、できましたら鶴と亀で、長生きしたいのですけど。
 松岡 たいへん失礼かもしれませんが、なにか叱られたど記憶は……。
 夫人 はあ、いたらないもので。もちろん、主人はやたらに叱る、ということはありません。ちゃんと理由があるんです。
 それで本当に身につまされたのは、「写真を送ってあげなさい」と言われたことがありました。
 ある方の弟さんが亡くなられる前に、主人がお見舞いに行って、写真を撮ってあげたのです。それが出来上がってきたので送るようにということだったのです。
 それを、私が、一週間ではなかったと思うのですが、四、五日……。なにかこう、手紙を書き添えて送らないといけませんものですから、遅れたのですね。
 そしたら、届いたのが、亡くなられたその日の二、三時間後だったそうです。その時に、叱られまして……。弁解の余地がないんです。私の方も本当に申し訳なく思いました。言われた時にすぐにやっていれば、という……。
 ほんとにショックな、また教訓にもなりました。そういうことがありました。
 佐々木 先生にお仕えするのは、たいへんなお役目ですから、さぞ緊張の連続であられると思います。
2  話はまず聞き、たたえる
 松岡 ところで、毎月の県長会議の折など、全国の県婦人部長の皆さんから、さまざまな報告をお聞きに、なっていますね。
 夫人 最近は忙しくて、なかなか……。でも、決して指導うんぬんというのでは、ありません。
 私を含めてですが、女性はいろいろ自分の思いを聞いてもらいたい、あるいは先生に伝えてもらいたい、ということが、種々あるんです。
 皆さんが話されるのを聞いてさしあげて、お話しされたということで満足していただけるのであれば、また活力にしていただけるのであれば、喜んでさせていただこうと、言い聞かせております。皆さん、それはもう、一生懸命に活動してくださっているのですもの。
 池田 女性の話は、私も、まず耳をかたむけることが大切と思います。それと、女性には決して叱ってはいけません。いや、叱る資格などない。たたえにたたえていくことです。
 日蓮大聖人は、けなげに信心し、折伏に懸命な人には、まさに「当如敬仏」の思いで迎えなさい、とおっしゃっています。
 それと男性には訓練することですが、女性は育てることです。女性が立派に育たないのは、育てる方が悪い……。(笑い)
 学会は婦人部の皆さまの一途な、懸命な活動のおかげで、今日があることを、私は一瞬たりとも、忘れたことはありません。
 女性は、家庭のこと、ご主人のこと、お子さんのこと、ご両親のことなど、現実の悩みや生活の諸問題、そして人生の課題など、すべてを背負って奮闘している。だから、信仰の必要性も大切さも、直観的にわかるのでしょう。
 婦人部の方々を大事にできないリーダーは、失格です。
3  美しき「不二の杖」
 夫人 私も、今考えると、主人に育てていただいたような気がします。
 そうそう、一九七四年(昭和四十九年)だったでしようか、あの年は、海外でずいぶんと忙しい年でした。
 佐々木 たしか一月は香港で、三月から四月にかけて北米、中南米と回り、秋には訪ソでした。また、初の訪中はこの年の五月で、十二月には二度目の訪中でした。
 本当に、席の温まる暇もないくらい、旅の連続でした。
 松岡 あの年は、当初はたしかブラジルへ行かれる予定もありましたね。
 池田 アメリカでビザを申請して、ロサンゼルス郊外のマリブ研修センターで待機している状況が続いた。その分、アメリカでは連日、メンバーの激励だったね。
 当時のブラジルは学会への誹謗中傷の風聞で、入国を妨害する動きも強く、ビザがとうとうおりず、やむをえず日程を変更しました。
 佐々木 ブラジルに行かないと決まった晩、先生はマリブからブラジルSGIの理事長に、国際電話をされていました。
 研修センターの二階にあがった所にある電話で、でした。
 「いいかい、涙など決して見せず、明るくはつらつと、心からメンバーを激励するんだよ! 私からも、くれぐれもよろしくと伝えてほしい」と。
 また、「今に必ず激励に行くから!」と、力強い声で噛んでふくめるような電話でした。
 そして、こうも言われていました。
 「私には、ブラジルに行けなくても、世界がある。宇宙があるんだよ」と。先生の心の大きさと広さに、体が震えました。
 マリブの海岸から、波の砕ける音が静かに聞こえる晩でした。
 池田 あれからだったね。ブラジルのリーダーたちはメンバーとともに、必死になって祈りに祈り、広布の環境を切り開いていった。題目を唱えぬいた分、願いが叶い、その分、前進の軌道が見事に出来上がっていったのです。
 すべては変化、変化ですが、なにがあっても崩れないのが、南無妙法蓮華経です。題目を唱えぬいていけば、必ず開けていく。これ以上はないという境涯になる。
 今のブラジルは、世界第一の戦いをしています。
 松岡 十八年経って、先生はブラジルに行かれました。圧巻の大文化祭が開催され、社会の発展に貢献するメンバーの躍動が目立ちました。
 その後、牧口先生や戸田先生、そして、池田先生の名を冠した公園や道路が誕生し、創価教育学説を実践する学校も現れ、いまや国を挙げてSGIを正確に理解し、期待もしています。
 池田 団結して戦った皆さまを、心からたたえます。
 やはり岬吟し、悔し涙をとらえて戦ったところが、最後は勝つし、広布も伸展するのでしょう。
 夫人 あの年は日程も過密で、旅の途中で日程が決まらないなど、苦労もございました。しかし、私などの苦労と比べたら、現地の方々のご苦労は、並大抵じゃなかったと思います。
 その海外への激闘の旅の折に、主人から歌をいただきました。
 佐々木 よろしければ、ご紹介いただけたら……。
 夫人 「道ひらく 君と歩みて 不二の杖」でございました。
 若いときは手紙もたくさんいただきましたが、本当に共同作業といいますか、ともに苦労してなしとげたように思えて……。
 それと対談集など出来上がりますと、「君のおかげで一冊の本ができたよ」と、言ってくださいます。
 ある年の私の誕生日(二月二十七日)には、「広布のため 世界で黄金の歴史を ここに留む」と墨書してくださいました。

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