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ロンドンの紳士  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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1  イギリス広布に生きた″縁の人″
 池田 ここでは、ロンドンの紳士について、お話をしましょう。一九九五年に亡くなられたリチャード・コーストンさんです。
 佐々木 先生は、研修で来日(一九九七年八月)したイギリスのメンバーを激励されながら、コーストンさんの生前の実践をたたえられ、ご夫人にくれぐれもよろしく、と言われていました。緑陰でのうるわしい光景でした。
 池田 イギリスSGI発足と同時に理事長を務め、副総合婦人部長のミツコ夫人とともに、母国イギリスのために献身されてきた方です。
 戦って、戦って、戦いぬかれた崇高な妙法のジェントルマンです。私の三世永遠の戦友です。日本にも長く住んでおられ、家も私の家のすぐ近くでした。
 松岡 朝、出勤時に、英語版の小説『人間革命』を読みながら、背筋を伸ばして自宅から信濃町駅に向かわれる端正なコーストンさんの姿をよく見かけました。
 池田 英王立陸軍土官学校を出て職業軍人になり、生死の境を経験された。第二次世界大戦中、英印連合軍の少佐だったコーストンさんは、インパール作戦でビルマ(現ミャンマー)からインドに侵攻しょうとする日本軍を迎え撃った。
 累々と横たわる戦死者の屍の列は、野ざらしになったままであった。十万の日本軍は、半数が戦死。コーストンさんは、慟哭した。「われわれは、なんと愚かなことをしているのか」と。
 私の長兄・喜一も、ビルマで戦死しました。帰還を信じ続けた母が、兄の遺骨を肩を震わせながら、ひっしと抱きかかえていた姿を、私は見ることができませんでした。
 佐々木 コーストンさんは、戦後は、エジプトでスエズ運河防衛の住務につき、その後、ロンドンの陸軍省に戻り、核兵器に関する調査に従事し、心身とも耐えきれなくなり、軍人をやめられた。
 ロンドンのハロッズ・デパートで副総支配人をされ、その後、ダンヒルの極東支配人として来日されました。
 松岡 日本で贈られた、英訳の小説『人間革命』が、仏法への眼を開きました。「戦争ほど、残酷なものはない」という一節から読み進むうちに感動は頂点に達し、魂を揺さぶられ、学会員として歩み始められた。五十一歳の時でした。
 池田 コーストンさんに初めて会ったのは、一九七二年の五月でした。社用でロンドンに帰っていたコーストンさんが、夫人を伴って、パリ本部の開館式に参加された。
 緑の庭園で、私はあいさつしました。「私たちは、東京で隣り同士に住んでいるのに、パリで会うとは、すばらしいことではありませんか」と。
 佐々木 その時、コーストンさんはまだ″学会一年生″でした。先生が、人を見つけ、人を励まし、人を育てていかれる姿に、いつも心を打たれます。
 池田 同じ年の夏、私は日本で一緒に勤行した時、「あなた方ご夫妻に、次はどこでお会いしたらよいのかと、考えてきたのです。今度はロンドンではいかがでしょうか」と言いました。コーストンさんは、即座に、「グッド・アイデアです」と返事をされた。
 とはいえ、住み慣れた日本を離れて、イギリスに帰国するのは、たいへんだったことでしょう。二年ほど熟慮し、その準備に当たられていました。
 松岡 その時の心情を、綴っておられます。
 「私を故郷へ帰らせたものは、いったい何か――私は日本を愛しており、故郷イギリスよりも居心地の良さを感じていました。加えて、日本人の妻と結婚して、三年目でしたし、会社では保障された待遇の良い地位についていました。
 当時すでに五十四歳であり、ロンドンで新しい仕事に就くのは、ほとんど見込みのないことといえました。しかし、私たちは帰ってきました! それが正しい選択だと確信をもっていました」
2  生涯「高貴な義務」に徹する
 池田 イギリスに帰国される十日ほど前、千葉で行われた本部幹部会で、ご夫妻の旅立ちを全国の代表に紹介しました。
 また終了後、歓送の場を設け、しばし歓談しました。私の写真集『平和への旅』に「久遠元初からの永遠友――リチャlド・コーストンさん夫妻へ」としたため、贈りました。
 イギリスに戻り、理事長になられた時も、「自分は、もう五十代の半ばである。一人の信仰者として静かな生活を送りたいが……」という逡巡も、多少あったようです。
 しかし、「小さなエゴにとらわれてはいけない……」と、発心された。まさに、「第三の人生」への雄々しき出発でした。
 佐々木 コーストンさんが母国に帰国して、初めて先生をイギリスにお迎えしたのは、一九七五年五月でした。
 あの時、先生は、トインビー博士との対談集が完成したのを機に、博士に特装本を献呈するため、パリからロンドンへわずか一泊二日の日程で、時間を縫うようにして行かれました。
 松岡 対談集に全力を尽くされた博士だけに、病気療養中で、お会いできないとわかっていても、先生は秘書のオール女史を訪ね、礼を尽くされました。
 佐々木 その間、先生はちょっとした時間を見つけて、緑鮮やかなハイド・パークを同志と散策されました。夜はイギリスの代表者会議に臨まれましたが、コーストンさんが喜々として案内する姿に、ああ、この方はイギリス広布を志願して生まれてこられたのだ、と思いました。
 池田 英国伝統の「ノブレス・オブリージュ(高貴な義務)」――高い地位にある者は、社会に奉仕し、人々のために献身する義務があるということ――を、身につけ、行動された方でした。
 ヨーロッパ広布二十周年を記念する夏季研修会が、南仏トレッツの欧州研修道場で、十八カ国五百人の代表が集って開催された時のことです。
 当時六十一歳のコーストンさんは、研修会の実行委員長として連日奔走しておられた。青年部のメンバーが心配して、休むようにとすすめたところ、「今、ヨーロッパは広布の草創期にある。自分の体をかばっているときではない」と……。
 佐々木 七十四歳で逝去される寸前まで、広布への情熱を燃やしておられた。一九七五年にグアムでSGIが発足し、先生がSGI会長に就任された時に、経過報告を行い副議長に就いたのがコーストンさんです。
 池田 不思議な縁の人でした。ロンドンでは、自宅を会場に提供されていました。最後はタプロー・コート総合文化センターのそばに住まわれていた。
 小さな会館で苦労してきたイギリスが、二千年の歴史を刻む場所を中心拠点にした姿こそ、勝利の象徴です。
3  笑顔で新たな″使命の旅路″へ
 松岡 亡くなる前年の夏ごろ、体の変調を感じ、診察を受けたらガンの宣告でした。コーストンさんは毅然と受け止められ、しばらく自宅療養された後、医師の勧めで検査治療ということで入院されました。
 その日に、意識不明になられた。駆けつけた夫人のミツコさんとフジイ副理事長が手を握り、ずっとお題目を唱え続けられた。
 佐々木 フジイさんが言っておられました。「理事長に、『イギリスは私たちが頑張ります! 心配しないでください』と言うと、手をグッと握って最後の合図をしてくれました」と。
 松岡 朝の五時半に逝去されたのですが、医師が亡くなられたと言った時、ミツコ夫人は「いや、生きているようです!」と言われた。それほど、安らかな永眠であり、頬はピンク色に輝き、口元には笑みをたたえ、フジイさんはその時を、こう語っていました。
 「やがて朝の太陽の光が病院の窓から差し込み、コーストンさんの顔を照らし始めました。悲しみのなかにも荘厳な一瞬でした」と。
 佐々木 国際宗教社会学会の会長をともに務められた、ブライアン・ウィルソン博士とカール・ドブラーレ博士が、イギリスSGIメンバーを対象に行った宗教社会学的な調査があります。
 『タイム トゥ チャント(唱題の時)』として、このたび日本語訳(中野毅訳、紀伊園屋書庖)も出版され、青年たちが真剣な人生の模索の末に、仏法を求めていることが綴られ、反響を呼びました。これもコーストンさんらの活動の一つの結果です。
 池田 コーストンさんは、今ごろ仏国土でゆっくり楽しんでいるでしょう。あるいは、この大宇宙の別の国土で、広宣流布に馳せ参じているかもしれない。あるいは、自身の新たな戦場に、あえてこの裟婆世界である地球を選ばれているかもしれない。
 成仏した人は、自分でどの世界に生まれるか、自由自在なのです。決める権利があるのです。
 人は、いつかは死を迎えます。死ほど確実なものはない。死をどうとらえて、日々どう生きていくか。いかに深き時間を、いかに深き人生を生きるか――これこそ最大のテーマです。

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