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日蓮大聖人・池田大作

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介護は聖業  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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1  「人生を奉仕の仕事ととらえよ」
 松岡 チリ共和国のエイルウィン前大統領との対談集『太平洋の旭日』(河出書房新社)が反響を広げています。
 日本とチリの修好百周年(一九九七年)を記念しての発刊で、太平洋を隔てて対極に位置する両国の理解に、また環太平洋時代を展望するうえで、たいへん役立つと好評です。
 池田 チリは十六年にもおよぶ軍事独裁政権を経験しました。犠牲者はおびただしい数です。
 エイルウィン氏は、武器によらず民主化を勝ち取った高潔なリーダーです。東欧の民主化運動に先立ち、世界史の流れを、民衆の意思にそって、決定的に変えた偉業でした。
 大統領職を後進に譲った後も、「正義と民主主義」財団を主宰し、精力的に活躍されています。
 佐々木 対談で、エイルウィン氏は、ご自分の日課について、「私は、早起きの人間です。朝六時に一日が始まります」と、語られています。
 九時ごろから仕事机に向かい、午後一時半まで仕事。再開は午後三時からで、会見したり、会合をもちます。
 通常は七時から八時までで仕事を終え、その後、訪問したり、講演したり、会議をしたり、ときに懇談も行います。
 ですから夕食はたいてい九時ごろになります。就寝は十一時です――と。
 池田 氏は七十九歳になります。民主主義を真に根付かせながら、社会正義の実現をめざし、民衆の側に立って活躍する。それが若さの秘訣ですね。
 氏に″青年に贈るモットー″を尋ねましたら、「人生を奉仕の仕事としてとらえ、他者に対して、人類に対して、奉仕作業としてとらえねばならない」でした。
 みずから、そのとおりの人生を送っておられる。また、この奉仕の心こそ、今、語りあっている介護の根本精神ですね。
 佐々木 介護経験を生かすということで、東京・墨田区の平川考子区副婦人部長のことを紹介してもらいました。
 平川さんは、約五年前から区のホームヘルパ(家庭奉仕員)として訪問介護をされています。
 松岡 平川さんのお母さんは、脳梗塞で倒れて三カ月の闘病生活の後に亡くなりました。その間、思うような介護をしてあげられなかったこともあり、母親に尽くすつもりで、ボランティア精神を発揮して地域のお年寄りに尽くしておられます。
 池田 すばらしい生き方ですね。後に続く人が大事なのです。後継者が立派であれば、先人は、より輝き光っていきます。
 また、お年寄りにとっては、長年、住み慣れた、そして最愛の家族との思い出が刻まれたわが家で、最終章を送りたいというのが正直な気持ちでしょう。その在宅介護を支える力となるのが、訪問医療や訪問看護、そして生活面では、ホームヘルパーさんです。お年寄りにとって、頼もしい味方です。
 松岡 ホームヘルパーの仕事内容は、掃除、洗濯、排泄のお世話や、調理、買い物など、あらゆる日常生活の補助が中心です。
 相談助言といって、話し相手になることも仕事の一つで、おたがいの信頼関係が介護の土台となります。
 佐々木 平川さんは、緊張しながらいちばん最初に行ったお宅で、「あなたは笑顔がいいですね!」とほめられたそうです。「これも学会での薫陶の賜物です」と、おっしゃっていました。また、受け持った方が、どうしても夜のおしめ交換が必要となり、一年間、日曜日を除く毎日、夜の九時半に、そのお宅に通い続けたこともありました。学会活動の後に、です。
 池田 「一人を大切に」という心に徹しなければ、できることではないね。
 松岡 平川さんは、できることは自分でやってもらうことで、お年寄りの「残された能力を引き出す」こと、また、「人格を尊重する」ことも大切だと言われました。
 池田 どんな人にも、人間らしい最終章を飾る権利があります。介護はその人生のフィナーレを演出する貴い仕事です。
 真心で尽くし、能力を引き出し、人格を最大に尊重していくという点では、教育とともに、介護は「人生の聖業」といえるでしょう。
2  介護に尽くした宝の十五年
 佐々木 愛知総県婦人部長の藤野和子さんにも、お話をうかがいました。
 池田 笑顔のさわやかな、学会婦人部のリーダーにぴったりの方ですね。十五年間、お義母さんの介護をやりぬかれたんだね。
 佐々木 ええ。お義母さんが、クモ膜下出血で倒れたのが、約二十年前の一九七八年一月、六十五歳の時でした。八時間におよぶ大手術で一命はとりとめましたが、手術後、痴呆の症状が出てしまいました。
 松岡 当時、藤野さんには二歳の娘さんがいて、なおかつ三カ月の身重の体でした。病院で付き添い介護を始めたのですが、下の粗相を目の当たりにして、吐いたりもしました。
 長い介護の間には、胆汁逆流性胃炎、急性胃酸過多に加えて、十二指腸潰瘍にもなったそうです。
 池田 介護する人が先にまいってしまう、という現実もありますね。
 とくに高齢社会になって、八十代の親の面倒を六十代の子がみるとか、七十、八十の老夫婦のどちらかが、どちらかをみるとか、そういうケースが増えています。いわゆる「老老介護」です。
 佐々木 倒れた藤野さんは、お義母さんと同じ病院で、毎日点滴を受けながら介護を続けました。
 正直、「なんで私ばかりが」とうらむ気持ちが先に立ち、「寝たきり老人を介護するのが、私の人生でしょうか。そんなに私は広布のお役に立たないのでしょうか」と、御本尊に心のわだかまりをぶつけながら祈ったそうです。一日、五時間、六時間と。祈らなければ、辛くて一歩も前へ進むことができなかったといいます。
 池田 釈尊は、「仏に仕えるのならば、病者を看病せよ」と教えました。
 釈尊自身、だれからも見放された病気の男性に手を差しのべ、汚れた体を洗い、寝床の敷物まで取り換えて介護をしたというエピソードが残っています。人を救うとは、どうすることかを、みずから行動で示したのです。
 佐々木 壁にぶつかった藤野さんですが、必死の唱題のなかで、ふと、三世の生命観から、心に浮かんだことがありました。
 ――お義母さんとの出会いは、たんに夫の母だからなのか。私が嫁だから、たまたま、みているのか。いや、そうじゃないはずだ。お義母さんは過去世において、私の恩人だったのではないか、次の世では私が恩返しします、と誓って生まれたのではないか――と。
 松岡 そう介護の決心が固まったのと同時に、ドラマが起こりました。お義母さんの痴呆の症状がなくなったのです。医学的には、クモ膜下出血の後遺症による脳の血管障害が癒えて、正常になったのではないかと言われていました。
 お義母さんは、入院前、新しい冷蔵庫をローン払いで購入した折、端数のお金を立て替えたことも思い出して、「あなたに二十八円貸したわね」と言われ、藤野さんは「うれしい二十八円でした」と。(笑い)
 池田 心一つでいっさいが変わる。お義母さんの生命力と藤野さんの祈りの勝利です。
 しかし、そこから、また十五年間の長い在宅介護がスタートしたのですね。
 佐々木 はい。お義母さんの退院と入れ替わりで、まず自分が入院して無事に二女を出産。退院後は自宅で、赤ちゃんと、寝たきりのお義母さんの、両方のおしめを替える日々でした。
 松岡 この時が支部婦人部長でした。その後も、介護と子育てとをやりながら、分県の婦人部長、方面の書記長などを歴任されました。
 池田 学会活動することで、心が豊かになり、強くなり、なにものにも揺るがない自分を築いていける。介護しながらも、自分に負けないで学会活動をやりぬかれたことが立派です。
 松岡 毎日のリズムは、朝食の用意と一緒に、お義母さんの昼の弁当をつくり、お義母さんの手の届く所に弁当やお茶、おやつのセットを並べて、活動に出かけます。娘さんが成長してからは、夕食のおかずもあらかじめ作っておいて、二人の娘さんが力を合わせて配膳してくれました。
 ご主人の協力と地域の同志の方々の応援にも支えられました。お義母さんは、頑張る家族に心から感謝するようになりました。
3  寝たきりでも″一家の太陽″に
 池田 私がご家族のことを詳しくお聞きしたのは、藤野さんが方面書記長をされていた時でした。
 ちょうど中部文化会館を訪れていて、役員で残っていた小泉婦人部長と藤野書記長に、私の妻が、「こういうときは、お家は大丈夫なのですか」と声をかけた。
 藤野さんは元気いっぱいに、「はい。子どもも大きくなりましたので、皆に守られてやっております」と答えられたそうですが、その時に、横にいた小泉婦人部長が、「じつはお義母さんが十年間、寝たきりで……」と教えてくださった。
 すかさず藤野さんは、「でも、とっても明るくて、″ベッドの上の青春″のような、おばあちゃんです」と言われていた……。
 松岡 計りしれないご苦労があったでしょうが、″ベッドの上の青春″とは素敵な言葉ですね。
 池田 妻から聞いて、本当にけなげで、頼もしく思った。介護をする人もされる人も、協力しあって、広宣流布のために戦ってくださっている。
 松岡 その時でしたね。先生がお義母さんにニックネームを贈られたのは。
 池田 そう。「ミセスベッド」という愛称を贈りました。″ベッドの上の青春のおばあちゃんに、人生の勝利あれ!″との心をこめて。
 佐々木 お義母さんも、うれしくて、うれしくて、名古屋地方の習慣もあるのでしょうか、赤ちゃんが誕生したときのように、「命名 ミセスベッド 昭和六十三年三月二十八日 池田先生より」と書いた大きな紙を枕元に飾った。
 お義母さんは朝早く起きて、目標を決めて題目をあげるようになったそうです。また″私が頑張らないと、嫁も学会活動できない″と、いよいよ″共戦の心″をもつようになったといわれます。
 松岡 先生の励ましが、前向きな新しい生命を蘇らせたのですね。
 池田 お義母さんのことは、その四日後の本部幹部会のスピーチでも紹介させていただいたことがあります。(一九八八年四月一日)
 長らく寝たきりの方ですが、だれよりも明るく、その笑顔で一家全体を照らしておられる方であると。たとえ動けなく、寝たきりになっても、信心が健康であれば幸福の境涯は揺るぐことはない。心の勝利こそ、人生の勝利です。

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