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介護と支えあう心  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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1  人生を審判するのは自分自身
 松岡 平和・文化・教育の交流へ、戸田先生の「原水爆禁止宣言」を胸に、世界五十四カ国を駆けた先生に、国連協会世界連盟からの特別顕彰(一九九七年九月、「国連支援と世界平和の推進への貢献」に対する顕彰)、核時代平和財団からの「平和の大使」の顕彰(九七年九月、「平和を広げ、紛争の非暴力による解決を推進してきた貢献」に対する顕彰)、おめでとうざいます。
 佐々木 国連支援の活動については、核の脅戚展、人権展、難民支援など多岐にわたります。
 一九九六年には、軍備を放棄した平和の先進国コスタリカでも、先生が行かれて、核の脅威展が盛大に開かれました。
 振り返れば、一九七五年一月、先生はニューヨークの国連本部を訪れました。
 ハドソン川から冷たい風が吹く日でした。事務総長と会談し、青年部の手による核廃絶一千万の署名簿を手渡されるとともに、国連擁護の運動を幅広く展開したい、と明言されました。
 松岡 国連本部への訪問の後、先生はグアムを訪れましたね。
 池田 そう。ニューヨークからワシントン、シカゴを経てグアムに入った。
 緑あふれるグアムは、先の太平洋戦争の激戦地の一つで、犠牲者も多かった。その島から平和の波動を世界へ広げたいという願いがありました。
 五大湖のミシガン湖をわたる風が肌を刺すシカゴでは、マイナス二〇度。常夏の島グアムは、プラス三〇度。気温差が五〇度もあった……。約三週間の旅でした。
 佐々木 そうした激闘のただ中、グアムでSGI(創価学会インタナショナル)が結成されました。世界の五十一カ国・地域からメンバーの代表が集まっていました。全員が会議の前に、大きな署名簿にサインしました。
 先生は、会場の入り口で、一ページ目に、サインを求められました。国籍の欄に、サインぺンでサッと「世界」と書かれました。民族衣装をまとった各国の代表は、通訳からその旨を紹介され、歓声をあげていました。
 松岡 先生は、文字どおり世界市民として、平和と国連支援の活動に、尽くしてこられました。
 池田 言ったことは、必ず実行する。約束したことは、断じて守る。これ以外にありません。
 戸田先生は口癖のように言われた。
 「いいか、信用というのはな、一度失ったら終わりだぞ。誠意、誠実といっても、行動がともなわなければ、なんにもならないぞ」と。人生の哲人の教えでした。
 すべて、代償を求めず、一つ一つ積み上げてきただけです。これは、わが人生の誇りです。宝です。
 人生というのは、その総決算です。自分の決めた道を、営々黙々と歩む人が、最後は勝つし、尊いのです。他人の評価ではない。最後の最後に、自分の人生に審判を下すのは、自分自身なのです。
2  いくつになっても″いよいよこれから″
 松岡 今、お話のあった人生の最終章の段階で、多くの人が避けて通れない課題の一つに″介護″があります。
 それについて、心和む家庭がありました。新潟の近藤さん一家です。信越の森本和子婦人部長から紹介されました。
 森本さんは、「長野や新潟は、高齢の方々が多い地域で、座談会を開けば八、九割が多宝会の方という所もあります」と言われるだけに、輝いている年配の方々のことをよく知っておられます。
 池田 森本さんのことは女子部の時から知っていますが、頑張る方ですね。吉田松陰が好きで、大学院生の時には、長い髪をなびかせ、ジーンズ姿で、松陰の事跡を全国くまなく訪ね歩き、その関係書を読破した行動的な女性です。信越の広大な戦野を飛び回っておられるのでしょう。
 佐々木 森本さんの家から何駅か行った所に、姨捨山おばすてやまがあるそうです。『大和物語』や『今昔物語』にも出てくる棄老伝説の地です。
 親代わりに自分を育ててくれたおばを、妻の言い分に負けて、山の頂に捨てて逃げ帰った。が、照る月を見ているうちに、自責の念に耐えきれず、翌朝、また連れ帰ったという話です。小説『楢山節考』の舞台にもなった場所ですね。
 池田 御書にも「棄老国には老者を」と、棄老国の名が引かれています。
 経典にあるエピソードなのですが、口減らしのために老人を捨てていた棄老国が、たいへんな危機におちいった時、隠れていた老父の知恵で救われる。改心した国王は、法を改めて老人を大切にしたといいます。
 松岡 先ほど話に出ました新潟の近藤さんのお宅に、「聖教新聞」の記者が取材に行ってきました。
 近藤幸子さんという圏総合婦人部長なんですが、総県副総合長のご主人、ご主人のお父さん、お母さん、息子さんと五人で暮らしておられます。息子さんの一人は、創価大学で勉強しています。
 佐々木 義母の近藤なかさんは、もう五年寝たきりで、痴呆の症状も出ています。しかし、すごくきれいな顔をされており、室内は清潔にしであって、明るくさわやかです。
 松岡 義父のかのえさんという八十九歳のおじいちゃんの存在も欠かせません。お元気で、一歳下のなかさんの、食事や排泄の介護をされています。
 本当に仲むつまじい夫妻で、寝るときは手をとって、「今日も亦 夫婦きみと手を取り 安らかに 共に楽しき 夢路辿らん」と三回言ってから、その横で眠るのだそうです。
 佐々木 お二人とも元は小学校の先生で、庚さんはピアニスト。毎日、庚さんがクラシック曲の「エリーゼのために」をはじめ「夏は来ぬ」や「誰か故郷を想わざる」など、童謡、唱歌、演歌まで、あらゆる曲を弾きながら、歌って聴かせるのですね。
 それで隣の部屋のベッドで聴いているなかさんが、「また弾いているな、いいなあ」っていう感じで……。(笑い)
 池田 人生の美しい劇ですね。人生の名優です。お二人で最高の人生の最終章を演じておられる。
 八十八歳まで長生きした喜劇王チャップリンは、最晩年、記者から「あなたの最高傑作は?」と聞かれて、「決まっているでしょ。私がこれから作る作品です!」と答えた。そうした前向きな生き方が、脳細胞に刺激をあたえ、新たな活力を生み出していくのです。人生を、自然と明るいほうへと考え、「いよいよとれからだ!」と前向きに生きていける人は幸せです。もちろん、周囲の家族の支えも陰にはたくさんあることでしょう。
3  八十九歳で妻を介護、共に百歳めざし
 松岡 はい。庚さんが、なかさんの枕元で語りかけます。
 「今まで一生懸命、家のために頑張ってきてくれたのだから、申し訳ないなんて思わないでくれ。百歳まで生きて、二人で、きんさん、ぎんさんを超えょう」
 池田 八十九歳で奥さんを介護するご主人も偉いですね。
 仏法では、百二十歳まで生きられるとある。「百歳を超えて生きよう! これからだ!」という決心が、生命をリフレッシュさせ、若々しくする。
 佐々木 健康の秘訣をうかがいますと、庚さんが、三つの句を、詠んでくれました。
 「良き友が できて余生の 虹を見る」
 「上品に 着こなす老いの いいお酒落」
 「楽しくて 舌にころがす いい話」です。(笑い)
 松岡 嫁の幸子さんは、ダウン症の息子さんも抱え、介護の過労とストレスで一度倒れたこともありますが、義父母のいたわり励ましあう姿が支えになったと言われます。また、義母の「ママ、ありがとね」との一言があるから続くのです、と感謝されていました。
 佐々木 ご主人から「母もそう長くはないかもしれないから、いい思い出をつくってあげたい。苦労をかけると思うが、協力をしてほしい」と頭を下げられたそうです。それで、幸子さんもいよいよ肚を決めて、取り組まれたようです。
 松岡 市の福祉サービスも積極的に利用されており、デイ・サービスで週一回の入浴。月一度はショート・ステイも利用し、その間に介護の休息をとる。車イスやベッドは市からのレンタル。近所の義姉が手伝いにきてくれるようになり、ようやく安定したということです。
 池田 老いて、寝たきりや痴呆になったときこそ、それまでの生き方が表れるともいわれる。また、だからこそ、健康なときに夫婦の信頼の絆をいかに築いていくかが、大切になってくるのでしょうね。
 近藤さんのケースは理想的ですが、多くの場合、病院や施設が足りませんし、少子化が進んだ結果、支える家族も少ない。
 佐々木 いつ終わるかもしれない長年の介護に行き詰まり、心も体もズタズタになったり、家庭も仕事も犠牲にして介護している方もいます。
 池田 経験した人でなければ、そのたいへんさはわからない。介護している人を大切にして、みんなで支えていく。近所で、そういう家庭があれば、励まし、心をかけていきたい。
 介護経験をもつある学者が、これからは、高齢者介護を血縁者が担う社会から、志のある人のネットワークで支える社会にならざるをえないと述べていますが、同感です。
 この「血縁社会」から「志縁社会」へというのが、一つのキーワードですね。
 「志」で結ばれた社会とは、創価学会がめざし、実践してきた「地域広布」の建設そのものでもあります。
 松岡 志といえば、神奈川での世界青年平和音楽祭(一九九七年九月、世界五十一カ国・地域のSGIメンバーが出席して行われた音楽祭)では、先生と旧知の、オーストリアの声楽家のサイフェルトさんが熱唱されました。
 サイフェルトさんは、人のために働くという透徹した精神の持ち主です。「第三の人生」に大いなる示唆をあたえる、模範のような人ですね。

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