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日蓮大聖人・池田大作

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山梨の長寿村をたずねて  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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1  日本有数の長寿村・棡原ゆずりはら
 池田 山梨県の棡原は、日本有数の長寿村として知られます。
 山梨第二〈県〉婦人部長から、地域の多宝会の方々を紹介したアルバムが届き、拝見しました。
 松岡 取材に行ってきましたが、すばらしい信心の方々でした。
 学会の組織は、棡原と西原の集落を合わせて、一地区を形成しています。上野原支部丸山地区といいまして、平成九年(一九九七年)には、六世帯の折伏を実らせ、地区総合最優秀賞に輝きました。
 佐々木 この地区は長さが約二十キロメートルもあり、上野原支部になると約四十五キロメートルです。東京でいうと、学会本部のある信濃町から八王子の東京牧口記念会館までが、一支部に収まってしまうのです。
 池田 自然の厳しさに加えて、過疎化や旧習の壁……。全国にもたいへんな地域が数多くあります。
 私は、毎朝毎晩、広宣流布に戦う同志が健康で、無事故で、裕福であるように真剣に祈っております。
 松岡 最初に訪問したのは、曽根みや子さん(七十四歳)のお宅でした。仏間には先祖代々の家族の写真がいっぱいありました。「皆さん、おいくつですか」と尋ねますと、「右端は主人のおじいちゃんで、安政三年生まれ。享年九十二歳だったかな。おばあちゃんは八十歳。主人のお父さんは事故で早くに亡くなったけど、お母さんは八十八歳かな」と。
 これでまず長寿村を実感したわけです。(笑い)
 佐々木 曽根さんのお宅に、もう一人、「生まれてから一度も病院に行ったことがない」というお元気な山口トシ子さん(六十九歳)に来ていただき、食生活についても詳しく聞きました。
 まず、「おばく」といって大麦を、コツコツと三時間くらいかけて煮込んだものをよく食べる。これにネギ味噌をつけて食べると、おいしいそうです。地粉で練ったうどんは、「ほうとう」といいまして、これに旬の野菜を入れると、また最高なのだと。(笑い)
 松岡 とにかく食事は野菜中心。サツマイモ、ジャガイモ、サトイモなどイモ類、豆類、ソバ、味噌、野菜、山菜と、すべて村で取れるものばかり。
2  野菜中心の食生活と労働の習慣
 池田 棡原ゆずりはらで長らく無料巡回検診を続けてこられた、古守豊甫先生の著作を拝見しました。
 それには「『身土不二』、つまり棡原の土からとれる自給自足の食生活であり、結局これが一村長寿の一大要因となっている」(『健康と長寿への道しるべ』風濤社)とありましたが、今も続いているのですか。
 佐々木 はい。また、村の巡回検診については、現在、古守先生の息子さんが後を継がれています。網野義徳さん(七十八歳)・かず子さん(七十九歳)夫妻のお宅には、三週間に一度、往診に来られるそうで、両親のお世話をする娘さんの千佳子さんも、たいへんに感謝していました。
 池田 すばらしいことですね。古守先生の「身土不二」の考察は、牧口先生と響きあうものがあります。
 牧口先生は、「地人相関」をテーマに、人間と自然の関係を主体とした地理学を提唱されました。
 御書にも「依正不二なり身土不二なり」とあります。(依報・土〈客体・環境〉と正報・身〈主体・人間〉が別々のものではなく、一体性をもっていること)
 仏法の「生命の法則」にも通じる長寿の知恵といえますね。
 松岡 石井正さん(七十八歳)・なお子さん(七十二歳)夫妻も、「自分の食べる分は自分でつくっています。野菜はお店で買ったことはありません」と言っていました。
 池田 古守先生は「人間の寿命は、その人が一生の間に食べた野菜の量に比例する」(前掲『健康と長寿への道しるべ』)と言われていますね。
 佐々木 食生活のほかに、長寿の要因になっているのは″仕事″です。山の斜面に開いた畑で、夏は朝四時に起床し、朝づくりといって、まず二、三時間働き、夜は、手元が見えなくなるまで働いたそうです。
 今も皆さん、畑仕事は欠かしません。
 松岡 昔は養蚕を年に四回やって、農閑期になると炭焼きもやりました。
 池田 美しい自然の中で、太陽をいっぱい浴びて、働きに働き、ストレスを吹き飛ばして、いい食生活を送ることが、長寿の秘訣ともいえるでしょうね。
 松岡 大久保昇さん(七十一最)・訓子さん(六十六歳)夫妻は、戦後すぐに村を出て神奈川に住み、平成元年(一九八九年)にふたたび村に戻ってきました。
 この地で実感するのは、「水がいい」「空気がいい」「太陽がいい」の三点だそうです。
 池田 山の上にあがると、星が近くにあり、お日さまに手が届くといった感じがあるのでしょうね。
 現在も、高齢の方々がお元気で活躍されているのは、なによりのことですが、統計的には、高度経済成長の波が押し寄せ、インスタントものや加工食品がたくさん入ってくるようになって、自給自足だつた村の食生活が急変し、中年層の成人病が多くなったそうですね。
 飽食日本への警鐘です。食生活が欧米化して、十代、二十代の若者は寿命が短くなっていくと指摘する専門家もいます。
 健康は勝ちとっていくものです。何を食べ、どんな生活を送るのか。決めるのは自分自身です。病気を治すことより、病気を防ぐことが第一の健康法なのです。
 松岡 池田先生は、山梨の友に、長編詩「世界に輝け 人材の要塞」を贈られました。
 地元のメンバーがその詩を古守先生にお届けしたところ、たいへんに喜ばれて「県民必読の名作と心から敬意を表します」と、すぐに手紙をくださったそうです。
 池田 過分な評価をいただいて恐縮です。
3  日が見えなかった「草創の勇者」
 佐々木 丸山地区の草創の信心の勇者が、梅屋武親さん(七十二歳)です。奥さんのれい子さん(七十歳)に支えられ、妙法の種を一つ一つ植えていった方です。武親さんの入会の動機は、目が見えなかったことでした。二十代の半ばから、結核性の病気で目がだんだんと悪くなり、二十七歳で完全に失明しました。
 松岡 入会は昭和三十四年(一九五九年)、三十四歳の時でした。勇んで折伏に出た武親さんでしたが、待っていたのは、「お前の目を開けてからこい!」という罵声でした。
 佐々木 目の見えない武親さんの手を引いて折伏に歩いたのは、娘さんのます美さんでした。当時、小学校一年生です。
 村中どとへ行っても、すごい形相で睨まれる。そんなとき、ます美さんは、武親さんの後ろに顔を隠して、「お父さん、もう帰ろうよ」と泣いた。その娘さんも、村で女子部の部長を務め、今では婦人部のブロック担当員として活躍されています。
 松岡 武親さんとともに本格的に折伏の戦いを始めたのが、二十歳以上も年上だった故・遠藤金吾さんでした。金吾さんとの共戦の日々を、武親さんは懐かしそうに語っていました。
 「雨の日も、風の日も、雪の日も、きょうは行こうぞと決めたら、二人で飛び出したぞ。近い遠いは言っちゃいられない。はじ(端)から(折伏を)やったんだ。お題目をあげて、目が開こうと開くまいと、信心のうえにおいちゃ本物になろうと決めてな」
 池田 いい言葉ですね。戦いきった人だから生まれる言葉です。信心のうえで本物であればいいのです。信心が本物であれば、生命は輝いています。
 松岡 金吾さんは、折伏となると腰に弁当を結び、高齢で足が悪かったので、杖をつきながら、武親さんの手を引いてくれたそうです。
 「たまには、げんこつ玉や張りまんじゅう(張り手)が飛んできたが、折伏は楽しかったな」と武親さんは笑っていました。
 池田 頭が下がります。武親さんや金吾さんのような草創の方々の血を吐くような戦いにつぐ戦いによって、学会が築かれたことを忘れてはいけません。
 佐々木 金吾さんの奥さんは遠藤数子さん(八十三歳)で、今も元気満々です。また、息子さんは、地元の本部長です。

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