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日蓮大聖人・池田大作

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子どもの眼  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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1  九十六歳で元気に周囲の世話を
 松岡 神奈川県の老人ホームで元気に過ごしておらる、和田タマノさんという九十六歳の方にお会いしてきました。ホームに移られるまでは、川崎市多摩区の池田支部の大作地区で、学会活動に励んでこられた方です。
 佐々木 池田支部の大作地区、おもしろいですね。
 松岡 ただし、読み方は、「おおさく地区」ということです。そのへん一帯の昔の地名が、「大作」と書いて「おおさく」と読む所だったそうです。
 和田さんは、周りから二十歳も若く見られるというだけあって、血色も良く、動作もキビキビとして、輝いておられました。
 体の不自由な車イスの方の面倒を喜んでみてあげたり、洗濯の手伝いをするのが楽しい、といって、本当に他人の面倒を一生懸命にみておられました。
 佐々木 「老人ホームは、人に世話をしてもらう人ばかりがいるのかと思っていたら、人の世話を喜んでする方がいる。私も、自分のカラを抜け出して、元気で明るい人柄の和田さんみたいになりたい」と言って、七十五歳の方が入会されて、喜んでおられるそうです。
 池田 志のある人が、介護を必要とする人を支えていく時代です。
 いずれは四人に一人が高齢者となるのですから、元気な高齢の方が介護にあたっていけることは望ましいですね。
 松岡 和田さんは、「今世では、学会のいろんな人にお世話になりっぱなしなので、来世は私が支部婦人部長になって、皆さんに恩返しをしたい」「毎日が幸せ、まったく不自由がない」と、言っておられます。
 池田 偉いですね。最敬礼します。お一人なのですか。
 人生幾山河、苦労を乗り越え、悲しみに打ち勝って、強い自分を鍛えあげてこられたのでしょうね。
 佐々木 ええ。母親を五歳、父親は十歳の時に亡くされています。
 その後、結婚し子宝にも恵まれましたが、そのお子さんも十歳で亡くされ、ご主人とも死別。そして、再婚されたど主人も死去。
 六十三歳で学会に入会され、地域の同志の温かい励ましで、一日一日が幸せという現在の境涯を勝ち取られたようです。
 池田 苦労こそ、人生のかけがえのない財産です。苦悩を突きぬけた人生体験の深さが、他人の悩みや苦しみを理解できる深さに直結していくのです。
 打ち続く不幸に負けなかったことがすばらしい。なにがあっても負けない――信心の極理とは、そこにあります。
2  立派な祖父母は子どもの一番の宝
 松岡 話は変わりますが、「小学生文化新聞」(聖教新聞社発行)では毎年、「作文コンクール」を行っています。
 一九九七年で二十八回を数えますが、今回の特徴を、審査委員長をされた伊藤譲さんが、「応募総数約二万八千点のなか、今までになかった特徴として、おじいちゃんに関するいい作品が多かった。従来は、おばあちゃんが出てくるのは多かったが、今年は初めておじいちゃんが出てきました」と、言っておられました。
 伊藤さんは、東京創価小学校の校長を務められ、現在、創価学園の創価教育研究所長、また教育センター長をされていますね。教育に変わらぬ情熱を燃やし続けてきた、かつての青年教師も、たしか還暦を迎えたのではないかな。しかし、人生、六十歳からです! 頑張っておられるでしょう。
 佐々木 高学年の部の最優秀賞「スイカのおじいちゃん」という作品をはじめ、優秀賞、優良賞の上位九作品のうち、四つが、おじいさんに感謝し、その思い出を書いたものです。
 「平和部門」の平和賞に輝いた作品も、「ぼくのおじいちゃん」でした。
 池田 うれしいね。婦人部にお世話になりっぱなしの壮年部だから、いい話もないとね。(笑い)
 子どもの純粋な眼で、祖父の生き方を、的確に見ているのでしょうね。
 松岡 福岡県大牟田市の米田智美さんは、「おじいちゃんとの思い出」という作品を、こんな書き出しで始めています。
 「十二月二十八日、朝五時三十五分、引き潮と共におじいちゃんは死んでいきました。一、二秒たたないうちに、私の目から大粒の一棋が、ぼろぼろとこぼれだしました。気が付くとおじいちゃんは背広姿になっていました。私はそれを見て、どうして背広など着せるのかと不思議でした。
 それは、いつも学会活動に出かけていた時の姿でおくりたいとの、おばあちゃんの願いだったのです。それを聞いて私は、おばあちゃんのおじいちゃんに対する愛情の深さにおどろき、なんとすばらしいことだろうと思いました」
 佐々木 米田さんは、おじいさんのしわだらけの大きな手が、大きな心となって自分をつつんでくれた思い出を、感謝と尊敬にあふれた文で綴っています。
 池田 少年少女のみずみずしい心、鋭敏な感性は、大人の振る舞いを、きちっと観察しています。白いカンバスの上に絵を描くように、ありのまま吸収し、純粋な命に刻み込んでいきます。善悪ともに、その受ける影響は大きい。立派なおじいさん、おばあさんをもった子どもは、なにものにも替えがたい宝物をもったことになりますね。
 佐々木 滋賀県草津市の高田正幸君は、「おじいちゃんありがとう」という作品で、野球のユニホームが破れたのを、洋服直しの名人のおじいさんが直してくれたことへの感謝を綴っています。
 松岡 小学四年の少年の眼から、仕事に打ち込むおじいさんの生き方と名人芸が、見事にとらえられている。「おじいちゃんの手はシワシワだらけだけど、はりと糸を持つと信じられないぐらいの速さでさっさと動いていく」
 佐々木 そのあと、続けますと、
 「おじいちゃんのミシンは、まるでおじいちゃんの弟子のように、おじいちゃんの思うように動かされていく。おじいちゃんが足をおいてガタガタ動かす。『かしこまりました』。そんな声がミシンから聞こえてくるようだ。
 ミシンだけじゃない。おじいちゃんのまわりにある道具、他では見たこともない古そうな物ばかりだけど、どれも全部おじいちゃんにしっかり仕えている。やっぱりおじいちゃんはすごい」
 松岡 なんでも引き受けてくれるおじいちゃんの姿勢が「『おやすいごよう』。これはおじいちゃんのやさしい口ぐせなのだ」と、感謝をこめて描かれています。
 池田 すばらしいおじいさんの生き方を学んだ子どもたちが、すくすくと未来に育ってくれることでしよう。楽しみですね。
 純粋な子どもの心には、仕事に、そして人生に、ひたむきに生きぬいてきた、おじいさん、おばあさんの姿がしっかりと焼き付いていくものです。
3  「ガンジーの心を青年に伝えたい」
 松岡 思いは受け継がれる――それに関連して、思い出したことがあります。インドの人権の闘士で、ガンジーの直弟子であったパンディ博士の話です。
 池田 十代でガンジーの非暴力運動に身を投じ、以後八回、延べ十年にわたる投獄などの苦難にも動じることなく、師の思想を伝えるため、不屈の行動を重ねられた方です。
 松岡 はい。以前、SGIの青年文化訪問団としてインドを訪れた青年部のメンバーに聞いたのですが、ガンジー記念館で行われたパンディ博士の講演の内容とともに、終了後の博士の振る舞いにたいへん感動した、と。
 「池田SGI会長こそ、ガンジーの精神を真に理解し、混迷する現代のなかで非暴力の思想を実践されている方です。そして、その後継者である若き皆さま方は、私にとってまさに希望の存在です」
 「夢を実現しましょう。ともにガンジーの夢を!」と、講演を結んだ後、博士は、九十歳にならんとする高齢、また独立闘争の時に受けた迫害で、足が不自由であるにもかかわらず、毅然と立ち上がり、五十五人の全団員一人一人と固い固い握手をされた……。
 その時の燃え上がるような老闘士の眼光に、団員一向、胸を熱くし、決意を深くしたといいます。
 佐々木 自身が引き継いできたガンジーの心を、後継の青年に託したい――その気迫が青年たちの心に響いたのでしょうね。
 池田 パンディ博士とは、一九九二年、インドで初めてお会いしました。
 そして、三カ月後、はるばる日本までお越しになられた博士は、私にこう言われた。
 「私の今の願いは、あと二十歳、私が若ければということです。六十五歳でしたら、池田先生の、世界不戦への戦い、非暴力の使命のお手伝いを、もっとできたのですが」と。本当に胸にしみいる言葉でした。
 また博士は私の目を見つめながら、「私はガンジーの弟子です。師の教えを叫び続けます。走り続けます。私の両目が閉じる最期のその日まで」とも述べられました。
 本物の″獅子″を見る思いがしました。博士は、インドでの私の講演(一九九七年十月、ラジプ・ガンジー現代問題研究所での講演「『ニュー・ヒューマニズム』の世紀へ」)に駆けつけてくださったこともありました。

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