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日蓮大聖人・池田大作

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生涯現役の心意気  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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1  責任ある仕事が長寿と健康の源
 松岡 関西婦人部長から、「九十歳を超えても、こんなに元気ですばらしい方々が、関西には、おられますよ」と、二十人を超える方々を紹介していただきました。
 池田 さすが関西の婦人部だね。元気いっぱいな錦宝会の方がおられるのでしょう。
 佐々木 はい。九十一歳になられる現役の助産婦さんがおられ、これまでに取り上げた赤ちゃんは、一万人以上ということでした。兵庫の釣田きぬさんという方です。
 池田 赤ちゃんを一万人も……。本当に尊いことですね。
 佐々木 聖教新聞兵庫支局の記者が取材に行って、お宅を訪問したその日は、午前三時から出産があり昼過ぎまでかかっていたようでした。
 帰宅したばかりの釣田さんは、薄グリーンの手術着とキャップ姿で、「ちょうどよかった。(取材の時間に)間におうて……」とニッコリ笑って出迎えてくれたそうです。
 松岡 取材の途中、釣田さんが、補聴器の電池を入れ替える様子を見て、驚いたと述べていました。わずか一センチぐらいの電池をパッと装着する手ぎわのよさといい、声の張り、物腰のすばやさ、目配りの鋭さに感心したといいます。
 池田 毎日毎日、母親と生まれてくる子どもの命を預かる仕事を果たしておられるのだから、一瞬の油断も許されない。
 生命の誕生にたずさわるという張りつめた緊張感のなかで、機敏な動きと健康をしっかりと身につけてこられたのでしょう。
 佐々木 大正十五年(一九二六年)に免許を取得し、助産婦の仕事を始められて以来、釣田さんは、この七十年間、一日たりとも気を抜ける日はなかったといいます。
 「カゼもひか、ないし、寝込んだこともない」ということですが、健康で長寿の生活を支えているのは、仕事への責任感によるところが大きいと思われます。
 松岡 釣田さんの名は、地元の高砂市内だけでなく、姫路や明石、加古川など播磨地方一帯に知れわたっています。いつでも電話があれば、昼夜をわかたず駆けつける……。難産と思われた人も、その顔を見ただけで安産になる、との評判です。(笑い)
 池田 学会のリーダーの中にも、釣田さんのお世話になった方が、おられるのでしょう。
 松岡 ええ。かつて播磨〈県〉の女子部長を務め、現在、釣田さんの所属している地区の地区婦人部長さんも、釣田さんの手でとの世に生まれた方です。そのお子さんも釣田さんのお世話になって誕生し、親子二代です。
 なかには、親子三代の方もいます。
 佐々木 釣田さんの手で取り上げられた人は多数おり、地元では、釣田さんに頭の上がる人はいないとか……。(笑い)
 池田 本当に、″播磨のお母さん″ともいうべき、尊い姿だね。
 人生の喜びや、生きがいといっても、他人からあたえられるものでは決してない。みずから見いだし、創りだしていくものである。
 ブラジルのことわざに、「最も幸福な人とは、最も多くの人に幸福をもたらす人」との言葉があるが、釣田さんの姿は、これにあてはまる。
 私たちも、日々休まず生命をその光ではぐくみ、輝き照らす「太陽」のような人生を、人に温かみをあたえられるような人生を、朗らかに生きたいものです。
2  晩秋の栃木で檜山先生と再会
 松岡 人に温かみをあたえるということでは、小学校で池田先生の担任をされていた檜山浩平先生が言っておられたことを思い出します。
 池田ああ、檜山先生ね。懐かしいですね。立派な先生でした。昭和十三年(一九三八年)から昭和十五年(一九四〇年)まで、蒲田の椛谷小学校の五年、六年の担任をしていただいた。かつて、栃木の県幹部会に行ったとき、その前年に校長を定年退職されていた檜山先生が、ご夫妻で、バスに一時間半揺られて会いに来てくださった。(一九七三年十一月)
 松岡 会場の体育館の控室で、池田先生と檜山先生がおたがいに「先生……」と呼んで、楽しそうに会話をされていた。
 佐々木 なんともいえない、心和むすばらしい光景ですね。
 松岡 その直後、檜山先生に取材記者としてインタビューをしたのです。
 初めは、「そうですね、池田先生は……」と、前の会話の続きの口調だったのですが、「小学校時代の池田先生は、どんな生徒でしたか」と聞くと、とつとつと次のように語り始められました。
 「なんと言いますかね。あの子は、友だちに温かみをあたえる子だった。それが、そのまま大きくなって、他人に温かみをあたえる人間になった。そんな気がします」
 佐々木 昔を想いめぐらされて、「先生」から「あの子」になったわけですね。おもしろいですね。
 松岡 そうなんです。このようにも言われていました。
 「あの子は、小学校のとろから、友だちの信頼が厚い子でしてね。決して言い訳などしない、落ち着いた子でした」
 池田 いつになっても、先生という存在は、ありがたいですね。あの時も「体を壊さないように頑張ってください。本当に休む暇もないようで……」と、親身になって心配してくださった。
 あるときは「高木は風に妬まれる」とのことわざを引いて、励ましの手紙をくださったこともあります。
3  ″よし、やるぞ″と雄々しき心で
 佐々木 もう一人、関西で紹介したい人がいます。和歌山の福本ツヤさんで、数年前まで旅館経営をされていた九十三歳の方です。
 聖教新聞和歌山支局の記者が取材に行きました。支局から車で二時間ぐらいかかる西牟婁にしむろ郡に住んでおられます。
 渋滞に巻き込まれて、約束の時間に五分ほど遅れてしまった記者を、出迎えた福本さんは開口一番、机を叩いて「遅い!」と一言。一呼吸おいて破顔一笑し、「遠い所、ご苦労さまでした」と。
 ともかくその間合いが絶妙で、圧倒されてしまった。(笑い)
 松岡 昭和三十年(一九五五年)に始めた旅館を、八十九歳まで一人で切り盛りされてきた。その間三十七年余、毎朝三時半に起床し、勤行・唱題。お客さんの履物の音を聞いてから吸い物を温め、食事の手配をする。
 そのこまやかな心配りで、わずか四部屋ながらも多くのお客さんに慕われ、旅館を続けてこられたといいます。
 佐々木 福本さんは、「九十になって初めて、年いったなと感じた」というのですから驚きです。
 現在、その旅館は改装され、息子さん夫妻が食堂を営んでいるのですが、今も福本さんは、毎日、九十匹のエビの皮をむくなどの手伝いもされている。
 「できるだけ、自分のことは自分でやります。弱音を吐いたら、病気が寄ってくる。負けたらアカン! 掃除もするから力も強いんや」と。(笑い)
 この「負けたらアカン!」という時、右の拳を固め、天を突く、この動作で人を励まし、みずからも確認するというのが、福本さんのトレードマークです。
 池田 まさしく関西魂そのものだね。
 私が、関西をとよなく愛し、どこよりも安心しているのも、そうした不屈の庶民の心意気と、飾らない人柄にあるのです。
 人生は闘争であり、勝負である以上、勝利する以外にない。戦いである以上、勝たねば不幸になる。負けてしまえば″この人生をぞんぶんに生きた″との喜びは、手にできないのです。
 そのための根本の法を説いたのが、仏法です。決して観念ではない。
 ″よし、やるぞ!″と雄々しき心が大切です。信心とは、一に勇気、二に勇気といってもよい。一日一日を、自分らしく勝利していく――その繰り返しのなかにしか、三世にわたる幸福と勝利の軌道を築いていく道はありません。
 御書に、「仏法と申すは勝負をさきとし」とありますが、私はこの五十年間、まさにその思いで広布の戦野を駆けてきました。
 たとえ人生の上で一時負けたとしても、広宣流布の戦だけは絶対に負けるわけにはいかない。民衆救済の尊い使命ある学会は、なにがあろうと、負けてはならないのだ――と、火を吐くように言われていた戸田先生の言葉を、何度も何度も反芻しながら、広布の道を開いてきたのです。

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