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日蓮大聖人・池田大作

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ごまかせない晩年の顔  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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1  偉大な生涯の香気が凝縮
 池田 晩年の顔は、ごまかしが効かない。人生の年輪が刻まれ、隠しようがない。
 なかでも眼は、雄弁にその人を語ります。日蓮大聖人の御書にも「人の身の五尺・六尺のたましひも一尺の面にあらはれ・一尺のかほのたましひも一寸の眼の内におさまり候」と仰せです。
 松岡 先生は、晩年のトルストイの顔がいちばん好きだと言われていましたね。
 池田そう。トルストイの晩年の顔は、すばらしい。偉大な生涯の香気が凝縮している。澄みきったその眼は深く光をたたえ、すべてを見通し、永遠を見つめています。気高く円熟した顔は、豊かな長老髭におおわれ、人類愛に満ちあふれでいます。あの風貌は、風雪に耐え、戦い続けたなかからしか生まれない。
 佐々木 先生が、モスクワ市内のトルストイの家と資料館を訪ねられた時でした(一九八一年)。そこにトルストイの彫像や肖像画が掲げてありました。先生は、ジーッと凝視するように見ておられました。そして、案内してくださった女性の館長に鋭い質問を次々にされていました。
 池田 文豪の旧居は、皇帝(ツァー)の権威を物語るクレムリンの豪華絢欄さと比べると、質素さがきわだっていました。
 最後の最後まで、国家と教会の権力悪と戦いぬき、愛するロシアの民衆につつまれた生涯でした。
 松岡 トルストイは、八十二歳で亡くなりました。
 池田 晩年になっても、トルストイは、休日もなく祝日もなく、午前十時から午後三時まで厳しいくらいに規則正しく筆を執っていたと、館長が説明をしてくださった。
 最後の旅も、人生の意義を求め、精神的危機を転換しようとしてのものでした。旅の途上、一寒村で倒れたトルストイは、臨終の床で、「地上には幾百万の人々が苦しんでいる。どうして、あんた方は私一人のことをかまうのか?」(「トルストイの生涯」宮本正清訳、『ロマン・ロラン全集』14所収、みすず書房)と、自分のためにではなく、不幸な人々のために泣いたと言われています。
 創価大学の記念講堂の正面にあるトルストイの像は、学生諸君にわが人生の最後の最後まで、人々のために民衆のために成長し、戦ってほしい、との希望をこめたものです。
 佐々木 先生がお会いしたノーベル賞作家のショーロホフ氏は、コサックの地の出身らしく独特の気骨がありました。
 病気と伝えられていたのですが、思ったより元気でした。その時(一九七四年)、ショーロホフ氏は、たしか六十九歳でした。
 池田 そうだつたね。血色も良く、白髪で小柄ながら、文学的巨人の深さと気骨といっていい風格が漂っていた。
 コニャックを飲め飲め、とすすめられた。私は下戸、なので、断るのに苦労した。飲んだふりをして、後ろにいた君にグラスを回した。
 佐々木 はい。私が代わりにいただきました。ありがとうございました。(笑い)
 池田 ともかく、気骨のある生き方が印象に残っています。
 「一定の目的に向かう信念のない人は何もできない。私たちは皆、″幸福の鍛冶屋″です。
 信念のある人、精神的に強い人は、運命の曲がり角でも、自分の生き方に一定の影響をあたえ得ると信じます」と言っておられた。
 つまり、人は、あくまで自分で自分の幸福を築いでいくのだ、という気概と達観です。
 松岡 先生は、その時、四十六歳でした。今は、ショーロホフ氏と同じ年代になられました。戦いにつぐ戦いでも、いよいよ壮健で、「第三の人生」の模範の生き方をされています。
 池田 いや、けなげに広宣流布のために頑張ってこられた方々こそ、すべて、模範の存在です。率先して人の面倒をみて、人のために汗を流してとられた。尊いことです。「諸天善神等・男女と顕れて」とあるように、その人は、あらゆる人々から護られていきます。
2  キッシンジャー博士とビスマルク
 佐々木 キッシンジャー博士と先生が、アメリカ国務省で初めて会われたのは一九七五年の年頭でした。ワシントンは、朝から小雪がちらつき、白く装って印象的でした。
 その後も、キッシンジャー博士とは何度となくお会いしました。緊急の国際情勢のことから、人生哲学にいたるまで、幅広く語りあい、やがて対談
 集の出版(『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』瀬出版社)となりました。
 博士が、老後の生きがい、死をどう考えるかという話になって、次のように言われていたのが印象に残っています。
 「私はドイツの宰相ビスマルクの言葉にいつも深い感銘を受けてきました。結婚生活五十年にして夫人が先立つのですが、その臨終の枕元で、ビスマルクは『始まったばかりだったのに、もう終わりなのだ』と言いました。
 私はそれが人生の厳しさであり、だれもがこの厳しさと取り組まなければならないのだと思います」
 松岡 ビスマルクの結婚生活五十年ということですが、先生と奥さまも、二〇〇二年五月三日には、ご結婚五十年、金婚式を迎えられます。
 池田 戸田先生が第二代会長に就任されてちょうど一年後に、本来ならば盛大にお祝いの総会をするべきところなのですが、戸田先生はあえてその日を私どもの結婚式に決めてくださり、その年は本部総会をされませんでした。
 この師の厳愛と厚恩は、片時も忘れたことはありません。
 松岡 以前、ある婦人誌の新年号(一九八九年)で、先生が、編集長のインタビューを受けられましたが、こんな会話がありました。
 「編集長――ご結婚後、三十七年になるとうかがっています。お目にかかって、奥様のお人柄の温かさを感じます。これまでをふり返って、奥様に感謝状をささげるとしたら、文面は、どんな言葉になるでしょうか」
 「先生――これはいちばんの難問です(笑い)。妻は私にとって、人生の伴侶であり、ときには看護婦であり、秘書であり、母のようでもあり、娘か妹でもあり、何より第一の戦友ですから。
 そうですね。あげるとしたら『微笑賞』でしょうか。(中略)まず金婚式(二〇〇二年五月三日)を二人して元気で迎えたいですね。
 『賞』の文面は、そのときまでの宿題にさせてください(笑い)
 佐々木 そのあと、編集長に「一言だけでもいかがでしょう」と言われ、先生は次のように答えておられました。
 「ウーン。私の真実をいちばん知っているのは妻ですし、妻の誠実とけなげさをいちばんわかっているのは、私だと思っています。
 妻との結婚は、私の人生にとって、かけがえのない幸せでした。その意味で『また生まれてきたら、次の世も、また次の世も、永遠にどうぞよろしく』というところでしょうか。感謝状ではなく、委任状になってしまいましたが……(笑い)」
 池田 シャープな質問を次々にされる女性の編集長さんで、追及の手をゆるめてくれないんです。(笑い)
3  一歩退くか、一歩踏み出すか
 松岡 さて、トインビー博士が、先生とのいっさいの対談を終えたさいに、対談に同行した人に″ぜひとも会ってほしい人物″を、そっと挙げられました。
 池田 もし、直接に名前を言ったら、押し付けになるかもしれないと、間接的にメモで渡してくださった。その心遣いには、今も感謝しております。
 佐々木 ローマ・クラブ創立者のぺッチェイ氏は、博士が名前を挙げられた一人でした。
 先生は、パリで一九七五年に初めて会われました。ちょうど緑の薫風さわやかな五月でしたので、パリ会館の庭で対談されました。
 池田 人類が経験した産業革命、科学技術革命は、すべて外側からの革命だった。次に人類がめざさなければいけないのは、内側からの人間革命である――との点で、完全に一致しました。
 佐々木 ペッチェイ氏とは、その後、何度もお会いされましたね。
 東京で、イタリアのフィレンツェで、ふたたびパリでと……。
 フィレンツェでは、ぺッチェイ氏は前日にロンドンからローマの自宅に戻り、対談のためフィレンツェへ車で四時間かけて、ご自分でハンドルを握って、駆けつけられています。
 池田 この時、ペッチェイ氏は七十二歳。じつに若々しく精力的でした。
 お会いした方々は皆さん、年齢を重ねれば重ねるほどお若く、さらに本格的に仕事に打ち込んでおられた。これでこそ、本物です。つねに満々たる前進の息吹をたたえていくことです。
 ともすれば、人間は年をとると「前進」の気概を失ってしまうことが多い。
 しかし、そこで一歩退くか、一歩踏み出すかは微妙な一念の差かもしれないが、「人生の総仕上げ」の段階にあっては、取り返しのつかない違いとなって表れてきます。

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