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創価学園1 中学校・高等学校[昭和56年度]

教育指針 創価学園(1)(池田大作全集第56巻)

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1  創価中学・高等学校 第十四回入学式〈昭和56年4月10日〉
 生命の「器」に清らかな知恵の水を
 今の諸君をたとえるなら、精神、肉体ともに、何でも入れることのできる「器」のようなものであると思う。しかし、その「器」が、ひっくり返っていたり「器」がふたで閉ざされていたのでは何も入らない。また、入れても入れても、底から漏れっぱなしの「器」でも困るし、汚いものでも何でも入れてしまう「器」でも困る。諸君は、みずからの生命という「器」の中に、いつも清らかな知恵の水をたたえ、善と悪、正と邪を正しく判断しつつ、これからの青春の生活のすべてを吸収し、自分の財産としてほしい。
 そのためにも、素直で純粋な心をもち続け、大きく心を開いていかれることを、願うものです。
 諸君もよく知っていると思うが、『坊っちゃん』コ一一四郎』等で有名な明治の文豪・夏目漱石の小説『吾輩は猫である』のなかに、次のような一節があります。
 「凡て人間の研究とだうものは自己を研究するのである。天地と云い山川と云い日月と云い星辰と云うも皆自己の異名に過ぎぬ」(『夏目漱石全集第一巻』所収、筑摩書房)と。
 少々、むずかしいかもしれないが、諸君の輝ける未来のために、紹介しておきたい。
 漱石がここでいおうとしたことは、人間が山、川の自然や、太陽、月、星などの天体を研究したり、観察したりするのは、すべて自分自身を研究、観察したりすることと同じであるということなのです。
 もう少しやさしくいうならば、勉強をし、クラブ活動をするのも、すべて、自分のためにするのであるということです。先生のためでも、親のためでもない。今後、勉強をしていくにつれ、どうしても好きになれない科目や学科が出てくるだろうが、そんなときに「すべて自分のためである」と自分自身にいい聞かせて、一生懸命、頑張ってもらいたいというのが、私の心からの願いです。最後に、とくに申し上げたいことは、我慢強い人、忍耐力に富んだ人に成長していただきたい、ということです。
 人生には、中途半端というものはない。最終的には、勝つか負けるかしかない。もとより長い人生においては、勝つときも負けるときもある。とくに諸君のように春秋に富んだ時代にあっては、挫折感でくじけそうになるときも多々あると思う。
 しかし、諸君は、断じて負けてはならない。弱き自分に打ち勝ってもらいたい。
 そして、お父さん、お母さん、多くの友人たちに「さすがである」といわれるような学園生活であっていただきたいことを念願してやみません。
2  創価女子中学・高等学校 第二回蛍友祭〈昭和56年11月15日〉
 さわやかな、教養深き人に
 きょうは、ご来賓の方ならびにご父母の方々、また教職員の方々、そして生徒の皆さんの元気なお姿を、このように一堂に相見ることができまして、心からお祝い申し上げます。おめでとうございました。
 創価学園の卒業生が、大学へ行ったり、社会に出たり、お嫁に行ったり、いろいろなようすを聞いております。
 教育が、国家百年の未来を決定する。幸、不幸の、また平和、文化の基調をなすものであるから、私は、教育に一番、力を注いでいるのです。そこで、女子学園生に、とくにお願いしたいことは、一つはさわやかな女性になってほしいということです。一人の女性が一家にいて、そのさわやかさ、明るさによって、一家というものはどんなに潤いが出るか。ところが、娘さんが、お父さんやお母さんといつも対立をしたり、喧嘩をしたり、内向的になったり、だんだん非行青年みたいになった場合、お父さんやお母さんの嘆き、苦しみ、一家の暗さは大変なものです。幸福というものは、遠くにあるものではありません。一番、身近にあるのです。そういう意味において、一家のさわやかな存在になってもらいたいということです。
 もう一点は、教養ある人になってもらいたいということです。つまり、品格をもってもらいたい。また、それを敷衍するならば、思慮の深い人になってもらいたい。薄っぺらな、浅はかな女子学園生になってもらいたくはない。思慮の深い、教養のある、芯のある女性であっていただきたいことが、私の理想であり願いです。
 今、お父さん、お母さんが仕事や生活でご苦労されているとしても、皆さん方が福運を積んで、そしていい人生を生きていくならば、今までお世話になった何十倍、何百倍、いな何千倍も返せるようになる。これが因果の理法です。正しい天の道です。そう確信して、今は一生懸命、学んでいただきたいのです。
 また、古来、「今生の恥はものの数ならず」といいます。今、いろいろと批判されたり、軽蔑されたり、悪口をいわれたり、議言されたりしても、ものの数ではない。「後生の恥こそ大切なれ」といって、永遠の生命という観点から、人生の総仕上げがどうかということが大切です。人間としてのできあがりが完全か不完全か、立派な人生であったか、または策や妬みの強い狂った人生であったかの差が大事です。永遠の生命観から見なくてはいけない。現象面だけで見てはいけない。
 また、「賢聖は罵詈して試みるなるべし」ともいいます。世に聖人、賢人といわれる人は、昔からどんなに悪口をいわれても紛動なんかされないで、信念をもって正義の道を歩んでいます。聖人、賢人たりとも、皆、試されているのです。悪口雑言、中傷、批判して、その人間の真価をみるということです。
 その意味において、皆さん方一人一人は、どうか、何かあの人はもっている、何かあの人は光っている、何かあの人の奥には教養がにじみ出るものがある、あらゆることについて思慮深い、本質をつかんでいる、こういう学園生になっていただきたいのです。
 また、来年から男子が入学してきますけれども、万葉の時代は、今と逆で父、母とはいわず、母、父といったのです。お母さんが、女性が一番、力があって、尊貴で大切にすべき人だという、これが日本の本来の伝統です。本当の人間の実態というものをわきまえた先進国、ヨーロッパなどでも、いわゆるナイトの精神ということをいいます。いろいろなことがあっても、かならず女性を大切にしている。女性は、たくさんのものを生んでいく、という意味において、尊く、神聖であり、最大に尊敬されたのです。
 万葉の歌はたくさんあるけれども、多くが庶民の歌です。センチメンタルとか、自殺とか、いわゆる碩廃的な歌はないのです。女子学園みたいに生きていこう、若々しく希望に燃えて人生を生きよう、躍動して青春を生きよう、人生を満喫しよう、という歌ばかりです。
 ここ交野の地は、万葉ゆかりの大切な国土であるし、万葉の教育をしているわけですから、どうか立派な男女共学を進めてください。
 皆さん方一人一人のご多幸を心からお祈りして、あいさつとさせていただきます。
3  創価女子中学・高等学校 第七回卒業式(メッセージ)〈昭和57年3月12日〉
 友情の芽を大切に
 晴れの卒業式、本当におめでとう。
 また、この日までご苦労されながら、卒業生を立派に育んでこられたご父母の皆さま、心よりお喜び申し上げますとともに、この二年間、永村校長先生はじめ、担任の先生方、ならびに教職員の皆さま、本当にありがとうございました。
 私は、どうしても、東京のほうで大切な用事があり、出席できませんが、皆さん方の誉れの門出を、だれよりもうれしく、万感の思いをこめて祝福申し上げます。
 緑豊かな交野の地で、皆さんは、たくさんの金の思い出と、かけがえのない友情とを胸中深く郷まれたことでありましょう。私もまた、皆さんとの出会いを決して忘れることができません。
 フランスの作家ロマン・ロランは「私には二つの宝がある。それは、私の友と私の魂である」という意味のことをいっております。
 人生にとって、友達ほどすばらしい宝はないでありましょう。また、よきたくさんの友人をもつ人こそ、幸せな人ではないでしょうか。園子の友情、園子の絆は、かならずや年輪とともに光り輝くことと思います。そのよき友情の芽を、これからも大切に伸ばしてください。
 女子学園もこれで七期の卒業生を送ることになり、一つの節を迎えました。幾多の先輩は、まさに道なき道のなかで、けなげに活躍しております。職場や大学、地域の人々から「さすがは」と大変、評判がよい。また兄弟校の男子学園出身者も、法曹、外交、学問をはじめ、各界で実力を発揮し、「創価」の名をいやまして高めております。
 私は創立者として、これほどうれしいことはありません。皆さんも、後輩のために頑張ってほしい。
 しかし、私がもっともうれしいことは、皆さん方がいつ会っても元気であるということです。これ以上うれしいことはありません。
 これからは、つらいときも、苦しいことも、思わぬ試練の山が前途にそびえ立つこともあることでしょう。また、社会の荒波も激しい。皆さんは、その風雨のなかで勇気をもって歩み、平凡であっても、いつも笑顔を忘れない強い芯をもった人であってください。
 私も毎日、皆さんのご健康と成長を祈っております。お父さん、お母さんをいついつまでも大切にと申し上げ、まことに簡単ですが、私のメッセージとさせていただきます。

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