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日蓮大聖人・池田大作

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創価学園1 中学校・高等学校[昭和53年度]

教育指針 創価学園(1)(池田大作全集第56巻)

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1  創価中学・高等学校 第十一回入学式(メッセージ)〈昭和53年4月8日〉
 凛々しく忍耐、勇気、努力を
 桜花絢爛の日、武蔵野の大地に響え立つ創価中学・創価高校の間を晴れてくぐった鳳雛諸君の、かぎりない前途を祝福しつつ、心からおめでとうと申し上げます。
 また先生方には、これまでの伝統を築いてくださったご苦労を深く感謝申し上げるとともに、新たに迎えた可能性の宝庫ともいうべき若芽を、さらにすくすくと成長させていただきますよう、衷心よりお願い申し上げます。ご来席の父母の方々も、お子さん方が意義ある中学時代、高校時代を送ることのできるよう、あたたかく見守ってくださいますよう、重ねてお願い申し上げるものであります。
 さて諸君は、中学、高校のそれぞれ三年間を、ここ武蔵野の一角で過ごすわけであります。三年といえば、長いようにみえて意外に短い。ぼんやりしていると、あっという間に過ぎ去ってしまう。ゆえに諸君は、一日一日を何らかの進歩の日として、勉学やクラブ活動、スポーツ等に、存分に打ち込み、「わが青春に悔いなし」と誇ることのできる三年間を送ってください。
 そのためにもっとも必要とされていることは、忍耐強さ、粘り強さであると思う。
 有名な司馬遷の『史記』に「三年飛ばず又鳴かず」との故事が記されております。
 中国の斉の威王(『十八史略』では楚の荘王)の時代のことである。威王が政治を怠って国が乱れに乱れる。みかねた淳于髠じゅんうこん(『十八史略』では伍挙)という人が、謎掛けによって王を諫める。「わが国には大きな鳥がおりまして、大王さまのお庭に降りていますが、三年間飛びもしなければ鳴きもしませぬ。大王さま、この鳥はいったい何か、ご存じでしょうか」「その鳥は飛びたたねば何ごともなかろうが、ひとたび飛びたてば天にのぼろう。鳴きださねば何ごともなかろうが、ひとたび鳴きだせば世を驚かそう」翁史記列伝』小川環樹訳、『世界古典文学全集第20巻』所収、筑摩書房)と答える。そして、たちどころに臣下に賞罰を下し、諸国に威令を行き届かせ、国を興隆せしめたのであります。
 威王は、三年間、文字どおり鳴かず飛ばずのように見えても、決して無為に過ごしていたのではない。コ一年飛ばず又鳴かず」とは、次の雄飛のために力をたくわえる雌伏の期間であったという故事である。そして威王は、事実、大きく雄飛していったのであります。もとより諸君の三年間を、威王と同じ次元で論ずることはできない。しかし、目先のことに一喜一憂せず、次の飛躍のために忍耐強く実力を養っておくという点では共通していると思う。
 私が、なぜこのようなことを申し上げるかといえば、最近の青少年のあいだに、ガラスのようなもろさが、あまりに目立つからであります。中学生や高校生の自殺、他殺の問題が、連日のようにマスコミをにぎわしている現状などは、その表れといえましょう。
 私は、若き命が絶たれたという報に接するたびに、胸が痛んでならない。個々の事情はあるかもしれない。しかし、かけがえのない生命を、なぜもう少し慈しみ、忍耐強く生きてくれないのかと思わざるをえない。人間本然の道理からいって、生命というものは、最極に大切にすべきものであるといえます。生命軽視の暗い影が、青少年をおおい、生きて生きぬく力を奪い去ったならば、日本の将来は闇につつまれてしまうでありましょう。
 ある作家が、ニカ月ほど前、次のように述べておりました。
 「とにかく、人類という大きな生命群が地上に現れて、存続していて、私たちの一人一人はその一員である。そして素直に考えてみれば、私たちの生命は、何ひとつ私たち自身でつくりだしたものではない。髪の毛一本、私たちはつくることができない。この体、腕、顔、すべては私たちの自主性によってつくられたものではなくて、人類という生命群から与えられたものである」と。
 その作家は、そうした人類の一員であるからこそ、勝手に自分や他人の命を奪ってはならないと結論している。私も、生命というものの深さと広さのうえから、十分にうなずける考え方だと思っております。
 人間の「人」という字は、二人の人間が互いに支え、助けあうかたちをとっている。人間の「間」とは、文字どおり「あいだ」を意味している。このことからも明らかなように、人間とは「人と人との間」すなわち広く社会のなかで成り立つのであって、自分だけ、一人だけの人間などというものは、本来、ありえないのであります。
 諸君たちにも、親があり、兄弟がある。多くの知人、友人もあるでありましょう。のみならず、社会全般は、何らかのかたちで諸君一人一人と繋がっております。したがって、諸君の人生の挫折は、それらの人々の悲しみであり、逆に見事な成長の姿を示せば、ともに喜んでくれるにちがいない。ゆえに、一人だけの狭い孤独のなかで悩んでいたりすることなく、つねに教師との交流、友との友情を深め、若者らしく勇気と忍耐と努力をもって道を切り拓いていってください。そこに、やがて時代の主役となるであろう、たくましい青春のエネルギーが燃焼していくことはまちがいありません。
 一人だけ、自分だけの人間はないということは、たえず他人の生き方を気にするということではありません。自分に対しては、客観の目をもつことであり、他人に対しては、その人の立場に立ってものを考えることです。それが思いやりとなり、大きい心を養っていくでしょう。いつも自分中心で、他人との比較ばかりを気にするということは、小さい不安定な人間をつくってしまう。ただでさえ青年時代は、感情の起伏が激しく、成績の良し悪しから性格の違いにいたるまで、必要以上に他人の存在が気になる年代であります。そこから、無意味な優越感が生まれたり、劣等感にとらわれて、閉ざされた孤独の世界に落ち込んだりする。
 ルソーの『エミール』に″他人と比較したり、他人に依存してはならぬ、しかし、つねにきのうの自分ときょうの自分とを比較することを忘れるな。他人と比較するだけでは社会の奴隷となるのみだ、きのうの自分との比較を忘れると慣習の奴隷となってしまう″という趣旨の主張があります。青年の生きるべき道を示した、非常な名言であるといってよい。
 他人と自分を比較してばかりいる小さな生き方ではなく、彼には彼の使命がある、われにはわれの使命があるとの広い心に立って、きのうよりはきょう、きょうよりはあすと、一歩一歩、進歩と向上の坂を上っていく力こそ、真実の若さではないだろうか。
 そのためにも、試練を避けてはならないと申し上げておきたい。
 仏教では「つぎの本の弓」の故事が説かれている。あるとき、学問をしない怠け者の子どもを、父親が槻の本の弓で打った。子どもは痛いので、父親を嫌い、弓を憎んだ。しかし、それでも勉強し、修行を積んで、悟りを得ることができた。さて振り返ってみると、自分が悟ることができたのは、いつに父親と弓のおかげである。そこでその子どもは、今は懐かしい槻の本でもって卒塔婆をつくり、厚く父親を供養したというのである。
 私は、スパルタ教育を勧めているのではない。槻の本の弓とは「試練の弓」であります。たしかに、そのときはつらい。だが試練を乗り越えてみると、改めてそのありがたさが感じられるものであります。そうした苦闘のなかで培われてきた力は、諸君が、社会に旅立っていったときに、学んだ学問にもまして強力な発条となっていくことを知ってください。
 最後に、諸君がこの学園生活を通して、見違えるようにたくましく成長されんことを祈りつつ、私のメッセージとさせていただきます。
2  創価女子中学・高等学校第六回入学式(メッセージ)〈昭和53年4月8日〉
 ふくよかな心あたたかい人に
 春うららかな本日、晴れやかに入学式を迎えられた皆さん、まことにおめでとうございます。交野の里を彩る木々の若芽が、陽光を浴びてさわやかに生長しています。皆さんも、新緑のようなみずみずしさをたたえて、さっそうと新たな学園の日々を送ってください。
 「桃李ものいわず、下おのずかこみちを成す」という有名な言葉があります。桃や李は何もいわないが、その花や実に人々が集まり、木の下におのずと小道ができる。つまり、福徳ある人には、しぜんに人が慕ってくるという意味であります。私は、皆さん方がふくよかな、だれからも慕われる心あたたかい人に育ってほしいと思います。
 よき先生、よき友人をもつことは、人生のこのうえない宝です。皆さんの学舎が、さらにどこにも見られない未来性と福運と心の豊かさにつつまれたものとなることをお祈りし、私のメッセージといたします。
3  創価女子中学・高等学校 第六期生入学記念懇談会〈昭和53年4月26日〉
 今は力をつける時
 家庭の中に、お父さんもお母さんもいて、幸せな人もいるでしょう。また、お父さんがいなかったり、事業がうまくいかなくて、なんとなく苦しい一家もあるでしょう。そういうことは、どこの世界でも同じです。学園生であるから、特別であるということはありません。また世の中を見ても、あの女性は有名でいいな、幸せそうだな、と見える場合、反対に隣近所や親戚を見て、なんと不遇でかわいそうな人だろう、と見える場合、さまざまな姿があると思います。
 しかし、皆さん方は、そのような上っ面の現象だけを見て、物事を判断するような人になってほしくないのです。人生は、一生で幸、不幸を決めていくものである。決して今だけでは決まらないのです。
 今、なすべきことは、一生懸命、学園生として勉強することです。力をつけることです。皆さん方一人一人が、この人生を、力をもち、福運をもって生き生きと生きていくならば、かならず両親も一族も幸せにしていけるし、人々を、時代を変えていくことができるのです。
 したがって、この二年間、六年間は、家が大変な人も、心の奥で、今に見ろという決意で、勉強に励んでいってほしい。コツコツと学校に通って、先生方にぶつかって、そして成長してもらいたいのです。
 人間というものは、だれ人たりともスランプというものはある。行き詰まりというものはある。もう自分はなかなかついていけない、どうしても点数が悪くていやになってしまうという場合があるかもしれないけれども、そうなったときには、ほかの友達もそういうことがあるということを知ってほしい。自分だけではない。全部、同じ人間です。乙女です。学園生です。大きい差があるわけがない。他人はよく見えるものです。自分だけが苦しいように思う。しかし、自分が大変なときは皆も大変なんだ、それなりに頑張っているんだ、自分も負けてはいけない、こう見るのが、まことの人間のあるべき道です。
 スランプというもの、いやになるということは、だれにでもあります。私だってあります。人間共通の問題です。大事なことは、そこで自分がどうするかなのです。堕落したり、避けたりするか、またはそこで頑張るか、友人のなかに入るか、先生にぶつかるか、というわずかの差で、将来の人生が決まってしまうのです。
 どうか、新入生の皆さんも先輩によくついて、一人も落後者がでることなく、見事に全員がこの学園から巣立っていただきたい。この学園で育っていった場合には、四十代になったときに、優れた、心豊かな、福運に満ちた勝利の人生が待っているということだけは、私は絶対の確信があります。一番大事な人生の総仕上げのときに勝てる基盤を、今つくっているのです。
 その意味において、学園を愛し、挑戦して、そしてこの三年間、六年間を見事に送ってください。

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