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日蓮大聖人・池田大作

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第十九章 下種三徳 人間革命の宗教の確立

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
1  講義
 前章では、「開目抄」の結論である「SC307E」の一節を通し、「末法下種の主師親」の深義を「慈悲」に焦点を当てて拝察しました。
 その要諦は、末法に法華経を弘める「末法の法華経の行者」は、その慈悲の実践に三徳を具えられるということです。
 すなわち、民衆の苦悩に同苦し、民衆の可能性を慈しむがゆえに末法弘通に立ち上がられ、大難を忍びぬかれた実践に「親徳」を拝することができます。
 さらに、南無妙法蓮華経を顕し、弘められることにより、人々の無明謗法を打ち破り、妙法への信を目覚めさせ、成仏へと導いていかれる戦いに「師徳」を拝することができます。
 そしてまた、一閻浮提広宣流布と立正安国を展望され、全民衆の安穏に対して深い責任感を示されたことに「主徳」を拝することができるのです。
2  普遍的な法を万年に流通させる深き戦い
 「報恩抄」のあまりにも有名な次の一節には、今述べた末法の法華経の行者における三徳、すなわち日蓮大聖人における三徳が明瞭に表現されています。
 「SC308E」
 大聖人は、妙法への無明謗法という重病に侵された当時の日本国の一切衆生を救うために、万人の仏性を呼び現す力を持つた根源の法である南無妙法蓮華経を弘められました。
 根源の法を表されたことといい、それを弘めるために身命を惜しまぬ戦いをされたことといい、大聖人の渾身の実践は、末法の全衆生を根底から救わんとされる広大なる慈悲の発露であられました。
 この「広大なる慈悲」はまさに「親徳」であり、無明謗法に閉ざされた「一切衆生の目を開く」戦いには「師徳」を拝することができます。
 そして、万人の仏性を開く南無妙法蓮華経を弘めることによって、当時の日本国の人々、さらには末法の全民衆を「無間地獄への道」から守られたとの仰せは「主徳」を表している。
 このように、大聖人における主師親の三徳は、万人に具わる「仏性」を触発する「仏種」としての南無妙法蓮華経を顕し、弘められた戦いに具わる徳であられると拝することができる。ゆえに「下種三徳」と表現されるのです。
 この意味から、大聖人御自身の三徳具備を宣言なされた「開目抄」また「報恩抄」の御文は、末法万年の一切衆生の救済の道を可能にする「下種仏法の確立」を示された御文でもあると拝されます。
3  なぜ下種仏法に力があるのか
 大聖人は、末法濁世の救済という課題に臨まれて、衆生の一人一人に内在する仏性の開発を促していくことで、時代と衆生を根本的に「変革」していく道を開かれたのです。
 あらゆる不幸のもとは、自分を支えている宇宙根源の妙法が分からず、また、教えられても信じることができない根本的な迷い――無明にあります。
 この無明を智慧に転換するのが仏の悟りです。煩悩を減していくのではありません。煩悩の根源である無明を、信によって打ち破るのです。そこに智慧が輝き、仏の生命へと転換していくのです。
 仏のように、無明を直ちに智慧へと転換できる可能性が仏性です。この仏性は、あらゆる生命に本来、具わっています。
 大聖人は、この衆生本有の仏性を南無妙法蓮華経と名づけられました。そして、南無妙法蓮華経の信と唱題行によって、無明を明へと転換し、煩悩を即菩提と変革して、功徳に満ちた仏の生命を実現する一生成仏の方途を確立されました。これが日蓮仏法の骨格です。
 大聖人は、立宗宣言以来、この唱題行を末法の衆生救済の根幹にすえて、妙法弘通の大道を歩んでこられました。
 ここで看過してはならないのは、信によって無明を打ち破るという心の戦いがあってこそ、仏界は涌現するということです。ゆえに大聖人は、唱題行を強調されるとともに、南無妙法蓮華経といっても己心の外に法があると思っていては、もはや妙法ではなくなると強く戒められています。
 無明から信へ――この「一念の変革」こそ、日蓮仏法の画竜点晴です。
 衆生の一人一人が胸中に確固たる信を確立した時に、自身に内在する仏性が薫発され、仏の生命が力強く涌現するのです。反対に「不信の心」があれば、仏性は冥伏し、生命は一瞬にして無明に覆われてしまう。
 下種とは、この仏性の触発を譬喩的に表現したものです。下種について大聖人が分かりやすく教えられたのが、「曾谷殿御返事」の「SC309E」の一節です。
 衆生は、植え手に種を植えられた後、自身の心田にやがて大きな実りをもたらします。すなわち、衆生自身が成仏という実りを得るのです。しかし、この譬喩から、仏種は衆生にはなく、仏に下種されて初めて衆生の生命に存在すると考えれば誤解となります。
 本当は、衆生自身の中に、もともと仏性があるのです。ただ、それが仏の教法によって初めて触発され、仏界の生命へと育っていくので、仏によって仏種が植えられたように見えるのです。
 したがって、仏種というと、衆生の仏性を指す場合と、仏性を触発する力をもった仏の教法を指す場合とがあります。
 大聖人は「SC310E」と仰せです。
 一切衆生の生命には、もともと仏性という成仏への因がある。その仏性を発動させていく縁となるのが一乗(法華経のこと、末法では南無妙法蓮華経)なのです。

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