Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十六章 「我並びに我が弟子」 「まことの時」に戦う人が仏に

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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5  不惜身命が師弟の絆
 「我並びに我が弟子」との仰せ、は拝するごとに金文字のように鮮烈に浮かび上がってきます。
 普通の宗教者であれば、「わが弟子たちよ」と一方的に呼びかけるにとどまるところです。ところが大聖人は「我並びに」と仰せです。「私もそうだ」と語りかける御心に、師弟一体の仏法の精神が込められています。
 そして、その師弟を貫く強靭な核が「不惜身命」です。師である日蓮大聖人御自身もまた法に対して「不惜身命」であられるがゆえに、仏法を万人に開く民衆の指導者たりえるのです。弟子もまた、弟子の次元で法を弘通するために、師と同じ「不惜身命」の実践で戦いぬいていかなければなりません。
 そのことを教えられているのが「SC289E」の一節です。
 もちろん、命をも奪われようとする大難の渦中でこその仰せです。私たちにとってみれば、戦前の軍部権力による創価教育学会の弾圧の際に、牧口先生、戸田先生とともに投獄された幹部たちがこの御聖訓に背いて退転し、権力に屈してしまった事実を忘れてはならない。
 その獄中で戸田先生は、書簡にこうつづられました。
 「決して、諸天、仏、神の加護のないということを疑ってはなりませぬ。絶対に加護があります。現世が安穏でないと嘆いてはなりませぬ」
 まさに、「開目抄」の精髄を込めた内容です。
 一個の人間として、また、一人の信仰者として、どう生きぬくのか。最極の法に生きぬき、不惜身命で戦いぬく信心のなかにこそ、生命が鍛えられ、金剛不滅の成仏の境涯を確立できることを忘れてはならないのです。
6  不求自得の成仏
 御文では、多くの難があっても、それに耐えて信心を貫きさえすれば、求めなくても自ずから成仏の利益があると仰せです。いわば「不求自得(求めざるに自ずから得たり)」の成仏です。
 なぜ、求めなくても成仏できるのか。
 それは、衆生の生命が本来、妙法蓮華経の当体だからです。そして、「強き信」によって、本来具わっている妙法蓮華経の自在の働きが何の妨げもなく現れてくるからです。
 人間の生命の上に、この妙法蓮華経が自在に働き出した時、その生命を仏界の生命といいます。妙法の無限の力が、何の妨げもなく働き出し、種々の人間の力として発揮されていきます。
 たとえば”一人立つ勇気”、たとえば”耐える力”、たとえば”苦境を切り開く智慧”、たとえば”人を思う慈しみの心”。そういう、いわゆる仏の生命として説かれる種々のものが、必要な時に適切な形で現れてくる。何の妨げもなく、妙法の力を人間の力として呼び現すことができる。
 ここで大事なのは、妙法の力が現れ出てくるのを妨げているものが、実は私たちの心の中の根本的な迷い、すなわち「無明」であるという点です。
 「無明」とは、妙法が分からないという根本的な無知です。また、妙法が分からないために、生命がさまよった状態になり、暗い衝動的なものに支配される。これが不幸をもたらしていきます。諸の不幸、苦しみの根に、この無明がある。
 したがって、妙法が分かれば、この無明はたちどころに消えてしまう。これを譬えて言うと、妙法が太陽で、無明は、それを覆う暗黒の雲みたいなものです。暗雲が晴れると、太陽の光がサーッと差し込んでくる。根本的な迷いを打ち破れば、直ちに妙法の力が生命に働き出し、さまざまな功徳、価値創造の働きとなって現れてくる。そのさまざまな形で功徳、価値が開花してくることが「蓮華の法」です。
 ですから、「衆生は妙法の当体であり、仏界の生命をもともと具えている」といっても、無明の暗雲を晴らす戦いをしなければ、仏界は実際には現れてはこない。単に、形ばかり題目を唱えていればいいかというと、そうではない。もちろん、僧侶に唱えてもらうなどというのは論外です。
 唱える人が無明を晴らす戦いをしなければならない。無明は心の中の迷いですから、これはやはり、自分の心の中で戦わなければならない。その戦いとは、一言で言うと「信」を貫くことです。
 仏の悟りを表明した法華経に基づいて、大聖人が御自身の内に発見され、そしてまた、それを御自身の戦いのなかで確かめ、実証されてきた妙法蓮華経という根源の法の働きをわが生命に自在に現すには、大聖人と同じ意味での「唱える」ということが必要になる。つまり、その根本に「無明と戦う心」である「信」がなければならない。
 大聖人の弘められた題目は、いわば「戦う題目」です。
 疑い、不安、煩悩などの種々の形で無明は現れてくる。しかし、それを打ち破っていく力は「信」以外にない。大聖人は「無疑自信(疑い無きを信と曰う)」と仰せです。
 また、「SC290E」とも言われている。鋭い剣です。魔と戦うということも、根本的には無明と鋭く戦うのでなければならない。私たちは、広宣流布を妨げる魔の勢力と戦っています。この魔との戦いも、根本的には無明との戦いです。また、人生に起こってくるいろいろな困難と戦うのも、本質は無明との戦いです。
 妙法への「信」、言い換えれば「必ず成仏できる」「必ず幸せになれる」「必ず広宣流布を実現していく」という一念が失せたならば、人生の困難にも、広布の途上の障魔にも、負けてしまいます。
 本抄で「疑う心」に負けてはいけない、「嘆きの心」にとらわれてはいけないと言われているが、その疑いや嘆きこそ、まさに無明の表れなのです。
 無明を打ち破る「信」の意義を端的に教えられているのが、本抄で述べられている涅槃経の貧女の譬喩です。そこでは、子を守るために命を捨てた母の話が説かれています。
7  涅槃経の貧女の譬え
 涅槃経には大要、次のようにあります。
 ――住むべき家もなく、救護してくれる人もいない貧女が、ある宿で子どもを産んだ。しかし、その宿を追い出されてしまい、貧女は子どもを抱いたまま他国に行こうとする。その間、激しい風雨にあい、飢えと寒さの苦しみに襲われ、また、蚊・虻・蜂・毒虫に食われる。やがて、河を渡ろうとした時に、流れが速く、子どもを手放すことをしなかったために、ついに母子ともに没してしまった。しかし、この女人は、子どもを思う慈愛の心の功徳によって、死んで後、梵天に生まれた――という話です。(大正12巻374㌻)
 すなわち、貧女がわが命をなげうっても子を守ろうとしたその強い慈愛の心にこそ、境涯革命の力があることを教えられているのです。
 現代人にとってみれば、暗く悲しい物語という印象が残ってしまう内容かもしれない。もとより、すべての母と子が幸福になるために仏法はある。まして、妙法を持った私たちからみれば、今世のうちに成仏し、絶対的幸福を確立することができます。その意味で、一生成仏を説く日蓮仏法とは異なる考え方も含まれている。そのうえで、あえて大聖人が本抄で引かれたのは、なにゆえか。
 それは、この経文の最後に、釈尊が呼びかけた内容が重要なメッセージであるからだと拝されます。
 すなわち、釈尊は、善男子たちに”この母が子どもを守りきったように、法を護りぬきなさい”と指導します。
 法を護りぬく信心、それが成仏への道であるというメッセージです。いわゆる、「不惜身命」「我不愛身命」の信心です。
 私たちの実践でいえば、不惜身命とは、いたずらに命を犠牲にすることではない。どこまでも自身が法に生きぬくことにほかなりません

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